ぶかわ ちか

あと2年で50歳。高校まではソフトテニス、その後、MTB、ロードバイク、マラソン、トレランと身体を動かし続けてる。これからも身体が衰えないよう走り続ける!そして息子を精一杯応援する!#箱根駅伝

ぶかわ ちか

あと2年で50歳。高校まではソフトテニス、その後、MTB、ロードバイク、マラソン、トレランと身体を動かし続けてる。これからも身体が衰えないよう走り続ける!そして息子を精一杯応援する!#箱根駅伝

最近の記事

自分と子供達のスポーツの道No.11

最後は三男の話  小学校では軟式野球、5年の途中からは硬式野球、中学でも硬式野球のクラブチームへ入団し野球を続けました。学校の部活はソフトテニス部へ入部しました。  三男も部活よりはクラブチームでの硬式野球を優先していました。小学生時代はチーム内の同級生が5人と少なく、主力選手として毎試合出場していましたが、中学生で入団したチームは同級生が37人、その誰もが小学生時代のチームでは主力級の子たちばかりで、高いレベルの野球、そして高校で活躍することを夢見て入ってきた子がほとん

    • 自分と子供達のスポーツの道No.10

      No.9からの続き 次男の話 新人戦県大会個人戦はハイジャパンカップの、そして団体戦は、春の全国選抜高校テニス大会の予選を兼ねている。この年、次男の高校は団体戦で県準優勝となり、新人戦のベスト8校による団体インドア大会に駒を進めた。 そして、このインドア大会の練習のおかげで次男は本当に急成長した。フットワークが格段に良くなったのと、最後まで諦めずにボールを追いかけることがしっかり身についた。そして初めて団体戦のメンバーに選ばれ優勝目指して戦った。残念ながら優勝を逃し全国の

      • 自分と子供達のスポーツの道No.9

        野球を辞めた次男は、ソフトテニスに集中して練習に励んだ。しかし、次男の通う中学はソフトテニスが強いというわけではなく、どちらかというと適当に遊んでいるような子が集まる部活だった。そのため、市内大会で敗退し、地区大会すら出場できないレベルだった。そんな中、同級生を引っ張っていこうと頑張る姿は立派だった。ちなみに次男のテニスのレベルは、市内大会では常に上位、地区大会を勝ち抜き県大会出場を狙えるレベルだった。同級生の中にいた上手な子とペアが組めたのもありがたかった。そして自分と同じ

        • 自分と子供達のスポーツの道No.8

          次は次男です。小学校では軟式野球、中学入学にあたり硬式野球のクラブチームへの入団を決めた。そして学校の部活はソフトテニス部へ入部した。子供達の誰かにはソフトテニスをやって欲しかったので、凄く嬉しかった。とはいうものの、当初は野球の方にウェートを置いていた。 硬式野球は、軟式野球と違って、全ての道具が重く、成長前の次男には都市部の体格の良い子に比べ、ハンデとなっていた。確かに小学校の時は人数も少なく、そつなく器用にどんなスポーツもできた次男は、チームの中心的な選手としてプレー

          自分と子供達のスポーツの道No.7

          それぞれの道へ次男の影響で子供達は小学生時代は野球を続けてきた。中学に入学した子供達は、それぞれの道を歩むこととなる。 まずは長男。部活で軟式野球を選択。このとき小学生時代ずっと控え選手だったこともあって、親として真剣勝負できる場というか、プレーヤーとして試合に出る機会を多く与えてあげたいと思い、個人戦もあるソフトテニス部への入部を勧めてみた。自分も経験者であり、教えることができるというのも一つの理由であったが、長男の意思は固く、迷うことはなかった。結局、レギュラーとして試

          自分と子供達のスポーツの道No.7

          自分と子供達のスポーツの道No.6

          2006年、愛地球博メモリアル記念と銘打って市町村対抗駅伝大会が始まった。自分は仕事で第1回、第2回大会に携わることになった。 そして駅伝の素晴らしさを体感することができ、自分自身この中に入って一緒に闘いたい、子供たちも代表になって走って欲しいとの思いが湧き上がってきた。 第5回大会への出場を目指して、次男が小6の夏に選考会へ初参加、この時小4の三男も上級生に混ざって参加させてもらった。結果は残念ながら上位2位に入ることはできず、代表入りは叶わなかった。自分は勤務地である

          自分と子供達のスポーツの道No.6

          自分と子供達のスポーツの道No.5

          毎週土日祝日は練習、大会と少年野球漬けの日々がスタートした。朝7時には朝食を済ませ、準備して出発、練習が終わって帰ってくると午後6時頃。そして大会の時は、会場に午前7時集合が通常でした。雨の日だろうと練習が休みになることはなかった。子供達には大変だった時期もあったに違いない。でも規則正しい生活の基礎は少年野球のおかげで身についたと思う。中学や高校時代に、朝、子供達を叩き起こした覚えはない。 さて練習はどうだったかというと、社会人野球まで経験された監督、コーチのもと、ハイレベ

          自分と子供達のスポーツの道No.5

          自分と子供達のスポーツの道No.4

          家族皆んなで共通のスポーツにハマって、大会出て応援して、というそうした流れの中、私の妻はいつもサポート役として付き合ってくれた。 そんな中、小学2年の次男が「僕、少年野球チームに入って野球がしたい!」と言ってきた。キャッチボールもまともにやってあげてないのに野球?できるのか?と思ったが、仕事帰りの夕暮れの中、車の窓越しにある光景を目の当たりにしてビックリさせられた。なんと道路のコンクリート擁壁にボールを投げつけて1人で捕球の練習をしていた。ノーバウンドで返ってくるボールを簡

          自分と子供達のスポーツの道No.4

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          バイクで頑張った

          バイクで頑張った

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          自分と息子達のスポーツの道No.3

          高校を卒業し最初にハマったスポーツはモータースポーツ。スポーツというのか分からないけど、当時世間を賑わせていた『峠の走り屋』に憧れて、マイカーをチューンナップして峠に駆り出していた^ ^その他には草野球、そして硬式テニスを始めた。どれも真剣にやるっていうよりは、趣味として楽しむっていう感じだった。 そして20歳を過ぎておもいっきりのめり込んだのが、MTB、そうマウンテンバイクだった。種目はクロスカントリー。登りと下りがあり、トリッキーなコース。シングルトラックで木の根が剥き

          自分と息子達のスポーツの道No.3

          自分と息子達のスポーツの道 No.2

          本当にやりたいスポーツが出来なかった中学時代。でもしだいに軟式テニス(今はソフトテニスだけど当時は軟式テニスって言ってたのでご容赦ください。)にのめり込み、最後にはこのスポーツやって良かったと思えた中学時代となった。 高校に進むにあたって、2歳上の兄が通う公立高校を選んだ。兄は1年の冬にチームのエース後衛となり、全国選抜高校軟式テニス大会、今でいう全国選抜高校ソフトテニス大会へ県代表としてコートに立った。 激戦区愛知で私立を撃破しての優勝。そして全国大会出場。本当に凄いこ

          自分と息子達のスポーツの道 No.2

          自分と息子達のスポーツの道

          今や当たり前のように息子の試合を観戦し応援している。 確かに子供を応援する親の姿はよくある事だが、遠方だろうと何時であろうと駆けつける親は特別だと思う。決して当たり前じゃない。なぜだろう?と思って考えてみると、そこには自分がスポーツが大好きでいろいろな競技をしてきた事や、観てきたことが原因かなぁと思うようになってきた。 そんな事を少しずつ記していきたいと思う。 自分はかなり田舎、今では限界集落と呼ばれる過疎地域に生まれた。小学校の全校児童は、6年生の時になんと9人でした

          自分と息子達のスポーツの道