カウスティネン民俗音楽祭について② カウスティネン民俗音楽祭の歴史

本節では、ペリマンニ音楽の衰退とポピュラー音楽の台頭、そして、カウスティネン民俗音楽祭が開かれることで始まった復興の歴史を概観する。

a) 民俗音楽からポピュラー音楽へ
 「フィンランドのポピュラー音楽は、「母体となる伝統」つまり古典音楽、民俗音楽、そしてアフリカ系アメリカ黒人の音楽の一つに解けあう中に生まれた」(ヤルカネン 1997:222)


 19世紀始めに始まったロシアによる統治は、フィンランドのアイデンティティの目覚めを呼ぶと共に、帝政ロシアの一部として中部ヨーロッパ文化との結びつきを生んだ。特に中部ヨーロッパで当時流行していた様々な娯楽、つまりダンスホールやサーカス、街頭演奏、公共事業としての催しもの、オペレッタなどが流入すると、大衆の関心はそれらに集中した。新しい文化は模倣され、フィンランドの人々はクラシック音楽や民俗音楽から離れて、軍隊音楽や中部ヨーロッパで流行していたダンスなどに親しんだ。


 また19世紀半ばにはサンクトペテルブルク、タリン、ストックホルムなどから多くの大道芸人たちがフィンランドを訪れ、手回し式オルガンや、アコーディオン、ツィター、マンドリン、ヴァイオリンといった楽器の演奏、歌などを披露した。特にドイツからやってきたハープを演奏する辻音楽師たちの活躍は目覚しく、国中のあらゆる街頭で演奏を行った。


 1910年代にジャズやタンゴ、フンッパhumppa(アコーディオン・ジャズ)、ラグタイム(注21)などが登場すると、人々の間で熱狂的な人気を呼んだ。本格的なジャズの時代は第一次世界大戦終了後に起こったが、当時フィンランド国内は独立後の内戦状態にあり、大きな社会不安を抱えていた。この時に登場したジャズバンド、ダッラペ・オーケストラDallapé Orchestra(資料16)は、人々に希望を与える役割を果たした。結成後数年でダッラペはフィンランド国内でもっともよく知られた音楽バンドとなり、同時にジャズも民衆の間に受け入れられていった。
 新しい音楽の台頭は、それまでの音楽としばしばはっきりとした敵対関係をとった。ヨーロッパ的なものとフィンランド的なもの、ポピュラー音楽と古典音楽や民俗音楽は、それぞれの活動の場所と存在意義を相争った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?