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「人生の目的」
ニヒリズムとは何か。
虚無主義と訳されることもあるが、一般的な理解としては「あらゆることに意味がない」と考えることであろう。
とはいえ、もしそうだとしたら、本物のニヒリストというのは、そうそうお目にかかることが出来ないだろう。「本当に」あらゆることに意味がなければ、行為そのものが成立しなくなるからである。行為とは、「何かを実現すること」を言うが、行為者は、その「何か」に意味があると考えるから行為するのである。つまり意味あることがなくなれば、行為も成立しなくなる。
哲学の世界、さらに言えば欧米では、人間の行いには必ずこうした「何かをするのは何かのためだ」という「連続性」(因果性)が意識される。「そんなのは当たり前だ」と言う日本人は多いだろうが、実際のところ「自分がやっていること」が、一々「なんのためか」を意識している日本人は非常に少ない。
大学生に、どうして大学に来ているかを尋ねてみると、答えられない者が結構な数存在する。何となく来ている。みんなが来ているから来た。そういう学生が多いのである。つまりみんながやっているからやっているわけだ。しかし「みんながやっているから」というのは、上述の「何かのため」ではない。それは行為の「理由」にはならない(少なくともヨーロッパ基準では、それは「理由」にならない)。
さらに「大卒の肩書きが欲しいから」という学生もいる。そしてそれは、「大卒の方が給料が良い」からだと言う。では、なぜ給料が良い方が良いのか。もちろん収入は多いに越したことはない。しかしその収入はなんのためなのか。ゲームがしたいからなのか。推し活にお金が要るからなのか。では、そもそもの話、ゲームをすることや推し活が、人生の目的なのか。
ここまで来ると、「人生の目的?」と思う人が出てくるだろう。そう、日本では、「人生の目的」という言葉は、かなり空虚に響く。他方、欧米では、少なくとも言葉として「人生の目的」は、空虚ではない。むしろそうした目的が明確でないことの方が、生き方として疑わしいものとされる。
それは、ヨーロッパの場合、日常に「どうして?」という問いかけがあふれているからである。ここで何度も書いているように、「どうして」という問いかけは、学問の出発点である。そうした出発点が、日常生活の中にあふれているのがヨーロッパなのである。他方、日本では、「どうして」という問いかけは、非日常的なものである。誰かの行為に対して、或いは自分の行為に対して「どうして?」と問うことは、珍しいことなのだ。つまり自らの行為を人は「意識化」していないのである。
ここで言う「意識化」は、「自分を俯瞰してみる」ということである。だが、俯瞰するためには、自分自身を離れる必要がある。欧米人が自分の行為を意識化するのは、他者から「どうして」と問われるからである。他方、日本人が意識化しないのは、他者から「どうして」と問われないからである。ヨーロッパの場合、他者から「どうして」と問われるから、そういった問いが内面化されて、自分が自分に向かって「どうして」と問うようになる(=自分を俯瞰してみるようになる)のである。対して日本には、こういった連関が存在しない。
日本人に学問的な意識が根付かない、哲学的な感覚が根付かないのは、社会に「どうして」という問いが見当たらないからである。自らの生に対してすら、「どうして」という問いが生まれない。それが非ヨーロッパ圏の当たり前なのである。
つまり学問の出発点と人生への問いは、別物として始まったのではないということである。そこには、いずれも「どうして」という問いが存在している。Aが起こるのはどうしてか。Bだから。では、どうしてBは起こるのか。Cだから。では、どうしてCは起こるのか。こういった問いのつながりはいつまでも続いて終わりがないように思える。しかしヨーロッパは、その最後に「どうして世界は存在するのか」という問いに行き着いたのである。そしてそれに対する答えが、「神が創造したから」なのであった。
つまりあらゆる問いは、究極的に神に行き着く。神がすべての「意味」を支えるのであり、目的となるのである。その結果、神の存在が疑われるようになると、すべてが意味を失うことになる。これがヨーロッパのニヒリズムである。他方、日本には、こういった思考回路が存在しない。そもそもの話、出発点たる「どうして」が発動しないからである。その結果、そもそも「究極の目的」「究極の意味」などに関心がない。
日本では、「人生の目的」が意識化されない。では、それはニヒリズムなのだろうか。それは実はニヒリズムですらない。ニヒリズムは、「どうして」という問いに対して究極の答えがないということなのであるが、そもそも「どうして」と問わない文化では、答えそのものが求められていないのである。
日本人に一番人気がある哲学者は、間違いなくニーチェであるが、そこに日本人が見出すのは、自分たちの影であって、ニーチェの思想ではない。後者は、あくまでも「どうして」と問い続ける文化の帰結なのであって、「どうして」と問わない文化とは、完全に似て非なるものなのである。