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哲学という名の異常な営み

今日、哲学はありふれたものである。

むろん、多くの人にとって「哲学」という分野はあまり馴染みがない。それでも哲学という分野があることは知られているし、それが何やら「きわめて理屈っぽい」事を語る学問らしいのは知られている。

では、哲学とは何か。

現代人にとって哲学とは、現代哲学である。書店の哲学コーナーに行けば、ハイデガーやデリダ、レヴィナスなどといった名前をテーマにした本が、多く並んでいる。日本人の哲学者たちの多くが、これらの哲学者を研究しているので、素人がこれらの思想を哲学だと思うのも無理はない。

では、哲学とはそういうものなのだろうか。現代哲学と呼ばれる思想群、さらにはポストモダンと呼ばれる思想群の特徴は、従来の「知性尊重」という立場に批判的だということである。しかし、そもそもの話、知性を尊重することこそが「哲学の仕事」だったはずである(これに異を唱える人はいまい)。どうしてこういう事態になったのか。

何度も書いてきたことだが、近代になるまで、ヨーロッパでは、ありとあらゆる学問は哲学と呼ばれていた。哲学とは、言葉の元々の意味からすれば「真理を愛すること」「真理の探究」だからである。真理を探究することを哲学と呼ぶなら、今日私達が「学問」と呼んでいるものは、ほとんどすべて「哲学」である。これは言葉遊びをしているのではない。事実、近代の初頭までは物理学も「自然哲学」と呼ばれていたのである。

この自然哲学が、哲学から独立すると、物理学は哲学とは異なる学問だということになる。物理学は、もはや哲学ではなくなったわけである。しかしそれが真理を探究するものであることは変わらない。それは、間違いなく古代ギリシアが目覚めた「知性の尊重」という流れを引き継ぐものなのである。

「真理を探究する」「真理を愛する」という営みにおいて、それを実行する能力として、古代ギリシア人は、ヌース(知性)に着目する。たとえばプラトンにおいて、イデアを捉える能力とされるのがヌースである。言うまでもなくイデアとは、私達が普段目にしている「具体的なもの」の(目には見えない)原型であると言われる。私達が目にしているリンゴは、時間とともに朽ちていくが、リンゴの原型である「リンゴのイデア」は朽ちることなく永遠であると言われる。つまりこの永遠で不変な何かを把握する能力が知性なのである(こういった知性の捉え方のオリジナルはパルメニデスにある)。

プラトンにおいて知性が尊重されるということは、「永遠なるもの、不変な真理」が尊重されるということである。

私達は、科学が探求するものが「普遍性」だということを自明のこととしているので、なんの疑いも抱かないが、「永遠なるものを尊重する」という価値観は、実はきわめて特殊なものである。なぜなら、私達の人生にとって、大事なのは「私達の生」だからである。私達の生は、永遠ではないし、普遍的でもない。いや、特に現代人であれば、「私が私であることは絶対に普遍性とは相容れない」と言うだろう。そしてそれは、どの時代でもそうなのである。

そう、人類の歴史を概観すれば分かることだが、(ほとんどの)人間の生にとって何よりも大事なのは、「今の私」である。ヨーロッパで実存主義と呼ばれる思想群は、「今の私こそが大切だ」というのだが、それは、人類の歴史からすればきわめて当たり前のことである(だから日本人にも受ける)。では、どうしてヨーロッパではこの実存主義というものが「ことさらに新しいもの」と思われたのか。それは、少なくとも思想界において、ずーっと「今、ここで」よりも、「いつでもどこでも」という普遍性の方が尊いと言われてきたからである。

私達は、今、ここで起こっていることが現実だと思う。現実、という言葉は、私(や私以外の人間)が見聞きするものである。「現実のリンゴ」というとき、私達は手に取って食べられるリンゴのことを考えている。ところがプラトンたちは、こうした現実よりも尊いものがある、こうした現実よりもリアルな(本当に存在すると言える)ものがあると言うのである。

これは異常な考えである。

私達が生きている現実よりも、もっとリアルなものがあり、しかもそちらをこそ尊重すべきだというのは、「普通の」思考からは生まれない(事実、こうした知性に目覚めたのは、人類の歴史上、古代ギリシア人だけである)。実際、プラトンのイデア論は、今日とても不評である。その結果、イデア論に対して批判的な思想が現代の流行となる。しかし巨視的に見れば、このイデア論というものは、「普通の考え」「普通の生き方」から逸脱しているのである。そもそもの話、プラトン自身、すでにそのことを深く自覚していた。その証拠が有名な「洞窟の比喩」である。

こうした見方から、「イデア論はおかしな思想だ」という現代の常識が生まれるのは自然なことだろう。そう、これだけを見れば、そういうことなのだ。

だが、、、。そう、話はここで終わらない。

先ほど書いた人類の歴史、哲学の歴史を思い起こして欲しい。今日の科学は、哲学の成果である。「現実よりもリアルなもの」を探求する知性の産物である。現実よりもリアルなものを追求するという営みは、すべて哲学という「異常な志」から生まれたのである。つまり知性を否定する、イデア的なものを否定するということは、科学全般を否定することであり、今日の人類の文明すべてを否定することなのだ。

もちろん、今日の文明を否定する事が「必ずしも」悪いわけではない。今日の文明に問題がないと言っているのでもない。だが、私達、先進国で生きている人間の日々の暮らしから科学を取り払えばどうなるか。知性で議論することを取り去れば「政治はどうなるか」。残念ながら、私達の国でも、多くの先進国でも、それはすでに現実化している。政治家は知性的に議論しない(=そもそも議論をしていない)のだが、それが、それぞれの国をどうしているか。

人々が今日でも(一応は)口にする「人権」とは何か。「どんな人でも」というのが、人権の鍵なのだが、「ありとあらゆる人間を等しく見るまなざし」とは何か。肌の色が異なるのに、なぜ「同じ」というのか。考え方も大きく異なるのに、なぜ「同じ」というのか。異なるものなのに、そこに共通点を見出して「同じ」と言い、しかもその共通点を「尊重する」のは、一体「何が」するのか。

今日では、「差異を尊重せよ」と言われるのだが、それは誰の目にも明らかなのだから、私に言わせれば、尊重するまでもない。今日、少なからぬ人が「差異を尊重せよ」と言うのは、世間が人権思想を(もはや思考することなく)自明視しているからにほかならない。人権思想は、誰の目にも明らかな「差異」を無視している。だからその差異を尊重せよと言うのである。

「目に見えないものを尊重する」立場に対して、「目に見えるものを尊重せよ」と言っているわけである。

人々の肌の色が異なるのは、誰の目にも明らかだ。そう、それは「明らかに違う」。少し話をすれば、考え方がまったく異なる人がいる。そんなことは、すぐに誰でも分かる。「あいつは違うのだ」と思うのは誰でも出来る。つまり努力しなくとも分かるのだ。他方、そうした違いを乗り越えて、それでも「あいつも人間だ」と考えるのには、エネルギーがいる。エネルギーがいるから、そのエネルギーを持つ人、そう考えようというモチベーションを持つ人だけが、そこに気が向く。そうではない人には、それは真理とは思えない。

社会が貧困化(経済的にも精神的にも)すると、このエネルギーが枯渇する。目に見えるもの、実際に食べられるものだけに目がいくようになる。しかしそうしたことからは科学は生まれない。真理は探究されない。

そう、知性の発動は、特異な現象なのである。だからこそ、それを強調しなくてはならない。知性尊重の立場を乗り越えるだとかいう思想は、難しい言葉をいくら並べても、結局のところ「今の私こそが現実で、それ以外に大事なものはない」という、ある意味、多くの人にとって「当たり前の感覚」を論じているだけである。それが現代において流行しているのは、それがあるべき姿を語っている(つまり正しい)からではなく、今日の人々にとって心地よい響きを持つからに過ぎない。洞窟の中で影だけを見ている人に、「外があるなんていう幻想にとらわれるな」と言っているわけである。

しかしプラトンが言うように、影が影だと分かる人は、きわめて稀なのである。哲学者を自称する人々は、自分がプラトンの議論を分かった上で、「それは幻想に過ぎない」と主張している、と信じている。しかし本当にそうか。確かに「現実よりもリアルなものがあり、それをこそ尊重すべき」と言ったプラトンは、常識外の人物である。しかし彼が「現実よりもリアルなものがあり、それを捉える能力が知性である」と言わなければ、ひょっとすると(いや、おそらくは)、今日の現代世界は存在しないのだ。

知性を批判する人は、科学に対しても批判的である。しかし、知性を批判するという時、何が知性を批判しているのか。感性だろうか、直感だろうか。センスだろうか。

今日の私達は、感性や直感と呼ばれるものにも実は知性が働いている事を知っている。感性というものは、経験が育むものだが、それは一つの経験だけではなく、経験の積み重ねによって育まれる。科学もまたそうである。それは個人の経験ではなく、その分野の専門家すべての知見を総合している点で、個人の感性とは異なるだけであって、経験の総合から一つの予測を見出しているのは同じである(どちらがより信頼が置けるかは言うまでもない)。

「感性が大事だ」とか「直感に従え」といった言葉遣いをよく目にするが、それらのすべてが、知性を抜きに成立しているのだとしたら、それらは、いわゆる超能力だろう。いわゆる世の相対主義者のほとんどは、反知性主義者であるが、彼らの言動には時々、こうした「超能力」を前提にしているようなものがある。

むろん、世の中のすべてが科学で解明できるのではない。しかし「まだ解明できていない」ことと「絶対に科学では解明できない(原理的に科学では扱えない)こと」は、別である。現実の科学は、常に(人間が不完全である限り)、不完全であり、絶対的な答えをもたらすものにはなり得ない。つまり「科学は不完全だ」というのが、批判として成立すると思っている人は、そもそもの話、科学を理解していないだけである。

科学を批判する人には、「では、完全な知識はあるのか」と問えば良い。知性以外に、完全な知識を導き出せる何かがあるのか、と。同じ問いは、ポストモダンを語る人々にも向けられる。こうしたポストモダンの時代に、狂信的な宗教やナショナリズムが流行するのも、実は当然のことなのである。彼らのメンタリティの根本にあるのは「理屈抜き」という合い言葉である。理屈を尊重しない人間が知性を尊重するわけがない。ポストモダニストの多くは否定しようとするだろうが、彼らのメンタリティは、こうした狂信者たちと変わらないのである。

もちろんポストモダンと呼ばれる思想群の中にも、「自分たちがしているのは知性による知性批判である」と考えているものもあるだろう。しかし多くがそうでないのは明らかである。

世間では知の大衆化ということが言われ、「誰でも、専門家と同等の権利を持って発言しても良い」といった空気が生まれている。しかし知性は、普通のメンタリティでは発動しないし、発動してもそれを維持するのに大変なエネルギーを必要とする。それを発動させるには、知性を鍛えるという訓練が必要だし(その訓練の代表が「賢明な人との議論」「専門家との議論」であり、本来、大学教育とはそういう場である)、それを体得しても、それを維持するのに大きな労力が求められる。

プラトンたちが述べたように、私達の思い込み(ドクサ)は、ほとんどの場合真理ではない。したがって、真理に向かうためには、自分の思い込みを否定しなくてはならない。つまり自己否定、自己の克服(克己心)が必要なのである(時々有名な学者が、自分の専門外のことでとんちんかんなことを話しているが、それは、専門外では克己心を忘れるからである。知性の本来の役割を自覚していないからである)。しかもこうした自己否定は、学者の専売特許ではない。今日の社会は、一般人が学者の言うことに異を唱えても良い社会だからである。SNSを見れば、専門的知識を欠いた人が、専門家を批判しているのをよく見かける。もちろん専門家が間違う場合もあるが、批判に見えて実は批判ではなく、単なる反感であるだけの「擬似(エセ)批判」も多い。こうしたエセ批判の書き込み手は、ドクサと真理の違いが分からない。自分に心地よいものが真理だとすら信じているのである。

<今日、大衆の意識に影響するのは専門家ではなく、インフルエンサーと呼ばれる人たちだが、彼らのほとんどは、上記のような知性の訓練を知らない人である。自分の手法で成功を手に入れたので、学問や知性を尊重することを知らないのだが、人々は成功者の言葉を専門家の言葉よりも信じるようになっている。つまり人々にとって大切なのは、「成功すること」なのであり、結局のところ、知性もその成功のための道具なのである。現代日本が、そういった状況であることを否定できるものは一人もいないだろう。>

頭の良い人が、ポストモダンと言えば、それは正しいことだと思う。しかし正しさを判定するのは、知性である。何度でも繰り返すが、知性以外に、或いは知性以上に優れた能力があるというなら、それを明示してもらいたい。そして、それが知性よりも優れていることを教示していただきたい。あれこれという人がいても、それが、社会や学問を前進させているなどという事例は一つもない。

哲学は、異常な営みである。それは、普通の生き方からは生まれないし、私達の日常からも逸脱している。しかしそれこそが、科学を生み、人権という考えの支えなのである。知性を超えるとやらいう主張の正体とは、一体何なのか。この問いかけを、誰が思考してくれるだろうか。





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