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『ハイデガーの哲学』

古い友人から勧められて、轟というハイデゲリアンの方が書いた『ハイデガーの哲学』(講談社現代新書)を読んでみました。

私が知りたい、分かりたいと思うことは、ほとんど何も書かれていませんでしたが、色々と腑に落ちることはありました。

一番腑に落ちたのは、ハイデガーという人は、ある時期以降、自問自答(と言うのはまだ良い表現で、はっきり言えば「独り言」)の世界に入って、世界と断絶したということです。もちろん著者は、そんなことは一言も書いていませんし、むしろその逆を主張しようとしているのでしょうけれど、読めば読むほど、ハイデガーは(「誰も私の思想は理解できないのだ」と思って)自分の世界に閉じこもったのだと思います。そうしたことが可能であったのも、彼に心酔する弟子や読者が多数いたからでしょう。彼の言葉はハイデガー語と揶揄されるほど自分の世界を作っていますが、そうしたことが可能なのも、その言語を学んでそこに住もうという人がいたからです。言うまでもありませんが、その国に彼を批判するものは一人もいません。彼を批判するものがいれば、その国の住人は、「あいつらはわからないのだ」と言いさえすれば良いのです。事実、こうした表現は、繰り返し、この本にも現れています。

この本が繰り返し述べているように、ハイデガーには、彼固有の問題意識があります(それは、まあ、周知のことです)。それは取りあえず「存在の問い」と名付けられますが、ここで厄介なのは、彼が問題にしている存在が、哲学史が語ってきた存在と違うということです。それらが異なると言っているのは、ハイデガー自身であり、彼の教えを理解することに人生を賭けているハイデガー学者たちですが、問題は、「本当に違うのか」ということです。著者の轟氏は、何度も何度も「違うのだ」と繰り返していますが、それを言うためには、少なくとも、ハイデガーと同じく、哲学の歴史そのものを通覧していなければならない。もしもここで、「ハイデガーがそう言っているのだから違うのだ」と言うのであれば、それはもはや研究者ではなく信者の台詞です。

ハイデガーはある時期以降、「存在(Sein)」という言葉よりも「性起(Ereignis)」という表現を好んで使うようになります。それは、従来の哲学用語としての「存在」には、ダイナミックな要素がないため、この要素を強調するためだと言われます(それを語る表現の一つとして、ドイツ語の es gibt が言及されたりするのですが、まあ、今は置いておきましょう)。

ですが、中世哲学をかじっている私からすれば、トマス・アクィナスは、神と被造物(世界のことです)の関係を、「存在そのものである神が、存在を与えることで、世界が存在している」と考えています。つまり世界の存在は、「存在が与えられる」ことで成立している。そう、カトリック神学では、存在とはそもそもダイナミックなものなのです(何せ創造、なのですから)。私は専門ではありませんが、ヘーゲルの考える存在も、やはりキリスト教的で、ダイナミック(歴史的)です。

もちろん、トマスの場合、創造者である神自身は、永遠で不変な存在とされるので、そこにもはやダイナミズムを見ることは出来ません。ですが、目の前にある「もの」の存在が、ダイナミックなものとして捉えられているのは間違いありません。私自身や目の前の机が、いつの日かなくなることは明白です。つまりそれは「はかない」存在である。それは永遠不変ではない。つまり従来の思想においても、十分、存在はダイナミックなものなのです。

だとすれば、「存在をダイナミックに捉える」と言うだけでは、ハイデガーの言う「従来の哲学にはなかった視点」は見えてきません。著者の轟氏は、ハイデガーの存在理解の特色として、その「圧倒的な力」を語りますが、これもまたキリスト教では当たり前のことです。存在そのものである神は、それに対峙するとき、人間がほとんど無に等しくなるようなものだからです。だとすれば、キリスト教とハイデガーの思想は、どう違うのか。決定的なのは、「神の知性」を想定するかどうか、です。この点に関しては、意見の一致を見ることが珍しいハイデゲリアンたちの中でも、見解が一致しているほど、はっきりとしています(私でも分かる)。つまりハイデガーの場合、存在(神)は、ユダヤ・キリスト教のような「知性を持った人格」ではない。そういう点では、トマスやヘーゲルとは決定的に異なる。

<ちなみにキリスト教が、神のことを常に「知性的存在」と捉えているわけではありません。カトリックに限っても、神において「知性と意志のどちらが上位にあるか」という問題はきわめて重要な問いです。意志が重要だという立場は、知性がすべてを決めるなんていう風には考えません。ちなみにプロテスタントは、主に、意志重視の立場ですが、轟氏は、こうした事実に一切触れていないようです。>

問題は、従来の哲学の核心と言って良い「知性」です。従来の哲学に対するハイデガーの批判は、ここに集中している。彼の問題意識から言えば、「知性は存在を思考し得ない」のです。どうしてそんなことが言えるのか。轟氏は、そこを説明しません。そこを説明しようとすれば、ハイデガーが論じた従来の哲学との対決全てを論じないといけなくなるからです。しかし入門書とはいえ、そこを説明せずに、ハイデガーはそう言っている、と言うだけなら、それを信じる人だけ読んでください、ということになります。実際、もし私がハイデガーの入門的なものを書くなら、徹底して、そこだけを論じるでしょう。なぜ知性では存在が論じられない、とハイデガーは考えたのか。そしてそれは、事実なのか。

勿論私はハイデガーの入門書など書けません。私は、知性は存在について思考できると考えているからです。ただし、従来の哲学は、知性の限界と言って良い「端的な無」を問題にしませんでした。その結果、「存在の究極の含意が、無ではないであること」に思い及ばなかったのです。

ほぼ確実に、こうした私の主張は、ハイデガーに受け入れられないでしょう。私の議論は極めて論理的ですが、こういった論理的思考こそ、ハイデガーが批判したい当のものだからです。つまり彼と私では、絶対に議論が噛み合いません。私は議論というものは、互いの言葉遣いをすり合わせて、その上で論理的に、つまり誰が見ても納得のいく仕方で、主張を述べるべきだと考えていますが、ハイデガーはそうではないからです(少し専門的な言葉になってしまいますが、そもそものロゴス理解が決定的に異なる)。事実、『存在と時間』を刊行して、一躍有名になってからのハイデガーは、一切議論をしなくなります(してもかみ合わない)。彼は、自分以外の哲学者と議論などできないと思ったに違いありません。それは、他の哲学者を見下しているというよりは、議論することそのものに意味を見出さなくなったからに違いありません。上で述べたように、そもそも話している言語が違えば、会話そのものが成り立ちません。

彼は、後期になると、「詩的な思惟」ということを言い始めますが、それはまさに、議論しない思惟です。対する私は学問の命は議論することだと考えていますし、論文を書くときも、紙の上で議論しているつもりです。しかしハイデガーはそうではない。彼が書いているのは、議論可能な学問的著作ではない。勿論それは、彼の独自性です。それはよく理解できます。しかしそうだとすると、彼の哲学そのものが議論の対象にはならないことになる。それはもはや学問ではない。とはいえ、それは当然のことでもあります。彼は、学問の元となった哲学そのものに異を唱えているからです。

(不思議なのは、そうした議論不可能なハイデガー哲学<それはそもそも哲学なのでしょうか?>を、学問的に、つまり議論で擁護しようとするハイデゲリアンがたくさんいることです)

さて、いよいよ問題の核心です。学問そのものに異を唱えるという場合、「何が」そうするのでしょう。知性ではダメだ、と言うのは「何」か。ハイデガーは、知性では本当に大事なことが取り逃がされると考えているわけですが、なぜそう言えるのか。それはどう説明されるのか。私は、議論が成り立つのは人間に知性があるからだと考えているので、その説明も知性によってなされねばならないと考えます。しかしハイデガーは知性そのものにダメ出しをしているので、そういった説明はしません。つまり彼と私では、議論どころか、会話が成立しません。これは完全に堂々巡りです。

戦後日本のハイデガー研究をリードした一人である木田元は、ハイデガーの哲学は反哲学だと言いましたが、その通りでしょう。しかし問題は、反哲学ということを主張することの意味です。先日来、私がここにアップしている文章は、哲学という営みそのものが、生を逸脱している奇妙な営みだと主張しています。そう、それは、その誕生の初めから、生からすれば、異常で特異なものなのです。それは生を一端逸脱することで、今日私達が科学と呼ぶ営みの土台となったのです。

私には、ハイデガーをはじめとする現代の知性批判者たちの主張は、結局のところ、哲学本来のあり方、つまり異常で特異であるという元々のあり方を「指摘」しているだけのように思われます。ですので哲学からすれば、むしろ、「だから何?」ということになります。そんなのは言うまでもなく当たり前だからです。私たちが鳥に向かって「羽があるね」と言えば、鳥は「そうだけど、それがどうしたの?」と言うでしょう。それと同じ。これは、今日の哲学の現状を見ても明らかです。英米で盛んな分析哲学とドイツやフランスで盛んなポストモダン思想は、哲学という同じ名前でくくるのが不思議に思えるほど異なっています。英米系の著名な哲学者で、ハイデガーやデリダなどに言及するひとはほぼいませんし、逆もまたしかりです。それらは別の言語で喋っている、別のカテゴリーです(分析哲学の立場からハイデガーを語る研究もありますが、そこで問題にされるのは『存在と時間』だけです)。

古代ギリシアが生んだ哲学は、瞬間瞬間を生きる私たちの生を問題にしません。難しい言葉を使えば、個々の生を抽象することで、学問は成り立つ。そしてそういう能力を発揮させることで、現代の私たちの生活がある。個々の生を抽象することで、逆に、個々の生に光を当てる。そうした学問が、さまざまな仕方で、私たち一人ひとりの生活に跳ね返ってきている。

現代の先進国を生きる私たちには想像すら難しいことですが、人類は、百数十年ほど前までは、盲腸すら治すことができませんでした。盲腸にかかれば、ほぼ死んでいたのです。ちょっとした病気にかかるだけで、人は死んでいたのです。それが人間です。進歩した医学が、私達一人ひとりの生を支えている。それどころか、今では、個々人の身体に合わせた「オーダーメイド治療」というものさえ、当たり前になりつつある。

しつこいようですが、これらはすべて、個々人の独自性を抽象することで可能になりました。そしてまた、繰り返しますが、学問は、個々人の生そのものは問題にしない(結果的にそれが個々人の生を救うことになるとしても)。

私は普段の授業で、学問(=哲学)について話しますが、それと同時に、各人の人生そのものは学問では語れない(正確には「語りきれない」)と言います。しかしそんなことは当たり前のことであって、哲学者が改めて「自分独自の思想として」言うようなことではありません。さらに言えば、科学は価値を不問にする(価値自由といいます)ことで成立するので、それ自体は、ニヒリズムです。科学に、意味や価値を見出すことは出来ないのです。だから科学に人生の意味を尋ねるのは、お門違いだということです(むろん、人生の意味を考察する際の材料にはなります)。

もちろん他方では、現代人の多くが、科学的な言明によって自分の人生を決定しています。あの仕事は、給料が良い。あのバイトはコスパが良い、などなど。これらは知性が計算した数値に基づいていることが多いので、科学的思考が、人間の行動を決めているように思う。しかしこれもまた当たり前のことですが、給料が多ければ多いほど「良い」というわけではありません。もちろんそれだけをみれば、良いと判断したくなりますが、給料が増えて、逆に不幸になったという事例はいくらでもあります。つまり給料と幸せは、「必ず」比例するわけではない。ここで私は、「必ずしも比例しない」と書いていますが、このことを理解しているのも、私の知性です。逆に、私からすれば、「お金がすべてだ」と思うことには知性が欠けています(お金が大事なことはもちろんですが、「すべて」ではない!)。

人生の選択をするのに、私達は科学を利用します。科学が出すデータであったり、科学技術が生み出す道具であったりに頼ります。しかし、科学そのものが人生を決めるのではない。これは当たり前のことでしょう。人間の行動がすべて知性によるものではないのは明らかですし、この事自体は、太古の昔から変わっていません。科学がどれだけ進歩しても、人間は知性だけで行動する生き物にはなりません。しかしそれも当然です。知性とは判断する能力であり、それ自体は、人を動かす「力」ではないからです。人が動くのには、原動力が必要です。その根本にあるのが、今の言葉で言えば生存本能でしょう。

現代社会の問題を論じるとき、いや、すでに古代ギリシアの時代から、社会の問題の根っこに、哲学者は「欲望」を見て取っていました。私達の行動の背後には、必ずと言って良いほど、この欲望(より広く「感情」と言っても良い)が働いている。ご存知の通り、この言葉は、ハイデガーの著作にほとんど姿を現しません。この言葉を問題にすると、問題が人間の問題になってしまい、彼が問うている「存在」が問われなくなるからです(少なくとも彼はそう考える)。

ハイデガーは、すでに戦争中にナチスとの思想的対決をしていた、と言われます(これはかなり昔から言われています)。結局のところ、ナチスもまた連合国と同じく、計算的な知性に動かされて動いているのだというわけです。

しかし普通に考えれば、知性はそれだけでは、選択という行動に出ません。色々ある知性の有り様の中から、計算的な知性が支配的になるのはなぜか。それは知性自身の選択ではなく、人間の欲望が、それを優先的に用いているからでしょう。もちろん人間の欲望は、一人ひとりが思っているように「自分自身の中から」生まれているのではありません。私達の欲望のほとんどは、同時代の価値観や周りの価値観に支配されているからです。しかし私達は、そのこと自身に気づくことが出来ます。知性があるからです。

他方、ハイデガーはこういった分析をしません。ナチスの分析をしたアドルノやホルクハイマーたちの考察など、ハイデガーからすれば浅薄なものでしかない。「より根本的なところ」から事態を見なければ、世界は本質的に変わらないというわけです。では、「本質的に変わる」とはどういうことなのでしょうか。都市的な生活をやめて、農村で牧歌的な生活に戻ることでしょうか。しかしそもそもの歴史として、これだけ人間の人口が増えたのはどうしてか。人口が増えれば、世界中どこでも都市が生まれ、都市的な思考が生まれます。こうした経緯を生むのも「形而上学的な思惟」なのでしょうか。

ちなみに著者の轟氏は、「ハイデガーは普通の意味での知性の重要性も十分理解している」と書いていますが、この点は、ハイデゲリアンの間でも意見が大きく分かれるところでしょう。それも重要だというのなら、その重要性について述べて、それとハイデガーのいう「詩的な思惟」の違いを明確にすべきでしょう(いや、おそらく「明確にする」ことすら、ハイデガーのいう形而上学的思惟なので、無理な話でしょうが)。

このようにハイデガーには私の立てる問いが届きません。そもそもハイデガーを理解してからでないと、彼との会話そのものが成り立たないのです。しかしハイデガーを理解するとは、もはやハイデガーのいうことに問いを抱かないということでしょう(普通はそうではありませんが、ハイデガーの場合はどうしてもそうなる)。つまり、原理的にハイデガーに対しては問いを立てることが出来ないということです。

これは、もはや擬似宗教です。これが哲学であるというなら、私は哲学なんぞというものに一切希望を抱きません。「そんなことをいうおまえは、存在の問いなど問えないだろう」と言われるかも知れませんが、私は、ハイデガーとは違う仕方(おそらくは伝統的な問い方に即した仕方)で存在を問い、彼とは違う仕方(しかも伝統的なのとも異なる仕方)で、それに対しての答えを出しています。しかもそれは、議論可能です。可能どころか、一つ一つのステップがはっきりしているので、批判をしようと思えば、ほとんどハードルがないと思われるであろうくらい簡単に批判可能な議論をしています(頭の良い中学生なら十分理解できるでしょう)。ところが、残念ながら、日本のハイデゲリアンの誰も、私の主張に応答してくれません(つまり反論もしない)。私は以前ハイデガーフォーラムという場で、自分の考えを披露しましたが、結局、まともな反応はないままでした。おそらく現時点で、正面から「存在への問い」に取り組んでいるのは世界でも私くらいのものでしょうが、それにもかかわらず、ハイデゲリアンの誰もそれに応答しないのです。

ハイデガーは、終生、存在を問い続けたのだから、彼を理解しようとするものも、この存在の問いを思考し続けないといけない。私にはそう思えますが、結局のところ、ハイデガーを離れて「存在の問い」そのものを引き受けようという研究者は、世界中どこにもいないようです。







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