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うたかたの木
雨が降っている。空には色がない。灰色の道路には木々が等間隔で植え付けられている。ふと、一本の木がブクブクと泡をふいていた。恐る恐る触ってみると、ねっとりとしていた。手は泡だらけになってしまった。
それ以来、ずっと泡が付いている。洗っても洗っても消えない。
他の人には見えないのか、あえて見て見ぬふりをしているのか、これまで泡について指摘されたことは一度もない。それを良いことに、たまにすれ違う人にこっそりなすり付けたりする。誰も泡に気づきやしない。いや、気づいてはいるが、やはり見て見ぬふりをしているだけかもしれない。別段どちらでも構わなかった。
ある日、ほんの出来心で電車の中の人々に泡をなすり付けながら、先頭車両まで早足で歩いた。みんな泡だらけだというのに、誰も気づかない。揃いも揃って馬鹿だ。
ガックン
中年男のふてぶてしく投げ出された足にひっかかって、つまづいてしまった。振り返り男の顔をギロリと睨む。男はさっと足を引っ込めた。
「すみません!だいじょうぶですか!?」
身を少し乗り出して、男性はそう声をかけてきた。よく見るとスラリとした体型で単に足が長かっただけのようだ。
「こちらこそ、すいません」
「いえ、それよりおケガはありませんか?」
彼は私に手を差し伸べてきた。躊躇しつつも促されるまま、泡だらけの手をそっと添える。手がおおきくて、あたたかかった。
ブクブクブク
手から猛烈に泡があふれてきた。
「いい香りですね」
「えっ!?」
「あぁ、泡。いい香りのする泡ですね」
泡のことを初めて言われたのでひどく動揺し、慌てて手を引っ込めてしまった。チラッと目線だけ彼の方へ向けてみる。やわらかく微笑んでいた。
ブクブクブクブク
ローズの香りを放ちながら、なおも湧き出てくる。あっという間に一面が泡だらけなってしまった。
電車を降りて、いそいそとトイレへ向かう。蛇口をひねると勢いよく流れ出す水。手を洗う。泡が排水溝へ流れていった。鏡の中の私と視線が合う。自分の顔をしばらく観察して、前髪を少し整える。ずっと使っていなかった赤い口紅を薄くひいてみる。
駅から出ると、木々は鮮やかに色づいていた。