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今年度を振り返る。

筆を執り始めた今日はまだ後期終了まで一週間あって、
最終日に大事な大事な考査を控えている。必修、大苦手統計。

アドレナリンなのか、
この時期になると最早危機感なんてものはなく、
寧ろ余裕綽々の表情を他人に見せる私が存在する。

あっという間に今年も24分の1が終わっていたり、
あっという間に今年度が終わろうとしていたり、
ジャネーの法則の信憑性を、身をもって感じ始める年頃にもなった。


時は遡り、昨年2月中旬。
全然自信もなく、落ちた気満々でへらへらしていた私の元に届いた、
第一志望合格という一報から、
私の2024年度は始まった。

高校時代はというと、
そこまで周りも悪くない環境であったし、
担任に関しては本当に恵まれたし、
最後の一年間については不満もほとんどなかった。
でも私はもとより引っ込み思案だったり、
捻くれていたり、浮いていたりする人だったから、
無論カーストは最底辺を突っ走っていた。
別にそれについて不満とかはなかったけれど、
かといって満足しているかと言われると微妙な、そんな学生生活だった。

そうして、4月になって。
誰もが胸に抱くような期待と不安を例外なく私も抱えながら、入学式を終えて。
私の所属する学科は少し特殊であって、
学科の人数を4分割したうえで、各クラスに担任が就き、
クラス単位で必修を受けたりするような仕組みになっており、
入学2日目の不安120%の私にそのような事実が突きつけられてしまった。

ぶっちゃけ、当時はすごく嫌だった。
一人でいられる空間を望んで大学に入ったのに、
何故小中高と同じようなことをしなければならないのか。
当時の私には反発心しかなかった。
故に最初の頃の私は、すごく馴れ合いを避けた。
多少のコミュニケーションは勿論交わすものの、それ以上は望まない。
空きコマには一人で図書館に籠って、誘いも乗り気じゃない時が多々あった。
でもそれで私はいいと思っていたし、寧ろこれこそが私の望む環境であった。今となってはすごく申し訳がない。

それでも、私が嫌と言おうと、
クラスというものは時として牢獄である。
集わなければならない時はかなり多かったし、
私も明らかに浮こうとすると周りに気を遣わせてしまうことが分かり切っていたから、
授業中だけはというノリでクラスの人たちと関わっていた。
それでもその中で、どうにか2~3人とは仲良くなりたいと思っていたし、
逆に言えばそれ以上の人間関係は必要ないと割り切っていた。

そうして、何があったのだろう。
私がうまくこなそうとしていく中で、自然と仲の良い人が増えていった。
というより、関わっていく一人一人から、私の苦手とする負の要素がまるでなかった。
だから私も躍起になって輪に加わろうとして、どんどん自然と打ち解けていった。
明確なきっかけとかはなかったように思う。

私もそこで、新しい趣味を確立した。
元々歌うことは好きであったが、こんなにもクラスに歌の上手な人間がいるとは思わなくて、
人の声が大好きな私からしたら、カラオケという趣味は抜群にマッチした。

夏になる頃には、クラスメイトたちと沢山ご飯食べに行ったり、
放課後遊びに行ったり、ましてやプライベートでも会ったり。
こんな充実した大学人生を送れるとは、微塵も思っていなかった。
バイトも始めた。面接時緊張しすぎて面接担当の人に心配された。
沢山失敗して、沢山同僚とお客さんに迷惑をかけながら、
どうにかこうにかやれることを増やしていった。
幸いにも同僚全員が良い人で、今となっては沢山後輩も増えた。
本当に恵まれたと思う。これは断言できる。


だからこそ、だろうか。
前年とは違うベクトルで、沢山病んだ。
前年は受験期ということもあったから、勉強に追われ続けていて苦しかったのは間違いないのだけれど、
今年は突発的にそれ以上のしんどさを胸に抱えてしまう時があった。

幼稚園入園から数えて、組織という枠組みで過ごす14年目。
その中でもトップレベルに環境が良くて、
だからこそ自分の無力さが浮き彫りになる。
バイトでも大学でも、助けてもらってばかり。
元々自己肯定感の薄い人間だからこそ、
助けて"もらってしまっている"ことに申し訳なさを感じてしまって、
何もできない自分、人に時間を割いてもらっている自分が嫌で、
今まで以上にしんどい一年でもあった。

実際それで大学に行けずに寝込んだ日もあった。
いつも浮上しているTwitterに、音沙汰なしの一週間を作ってしまった時もあった。
そうしているうちにも沢山皆が心配してくれて。
嬉しくて、その数倍申し訳がなかった。

漠然と、人に迷惑をかけない人間になりたかった。
でもそんなのどうしても不可能だし、
でもそれを実感するたびに、自身の弱さに情けなくなってしまって、
過剰に病んでしまう。それが私という人間。

「死にたい」だなんて、軽率に言ってはいけない語彙なのは重々承知である。
でも、どうしてもそう思ってしまう日があった。
勿論死ぬのは怖い。どうせ死ねやしない。
そりゃ死にたくはないけれど、でもこの世にいたくない。
ここ数ヶ月は、どんな日でも薄っすらとそう思ってしまう。
こんなに恵まれていて、幸せなはずなのに。

後期も終わる。
大学内でもバイト先でも、本当に沢山の人間関係を作らせてもらった。
それら全てが、心底幸せで、
だからこそ自分のせいで破綻してしまうのが怖かった。
実際破綻だってした。それも私のせいで。


必修の講義で、プレゼンの講義があって、
その最終プレゼンの題材が、「クラスへの一年間の感謝」だった。
台本があっても内容が飛ぶ極度のあがり症だから、
敢えて台本を一切組まず、ありのままで喋った。ほんの先日のお話。

残念ながら私が自分で喋った内容を忘れられたらよかったのだけれど、
全くもってそうともいかず、寧ろ鮮明に覚えている。
私の口からは自己否定の言葉しか出なかったことを、それはもうすごく鮮明に。
うちのクラスは暖かいし、私はそのキャラで通っていたから、
それがちょっぴり笑いに持って行ってくれたのは幸いだったけれど、
咄嗟が要求されるトークで一番最初に出てきてしまうのがその言葉なのかと、
自分自身に酷く落胆した。

結局私は、どうなりたいのだろう。
私の中の理想として、「私に向ける好感度が0以上の人には底抜けに優しくありたい」というものがある。
好感度が0以上というのは、見知らぬ人だったりバイト中に来るお客さんだったりも対象になるし、
そういう人達が私に明確に悪い態度を取ってこない限りは、できる限りの善意で行動したい。
勿論友人たちには優しくありたいし、できることなら何でもしたいし、
迷惑はかけたくないし、気を遣わせたくはない。

でも結局迷惑なんて沢山かけてしまうし、
沢山気を遣わせてしまうし、
私も別になんでもできるわけではないし、
寧ろできない側の人間だから、頼ってばかりだし、
自分のネガティブな事情に相手のメンタルと時間を割かせてしまっているの、申し訳がなさすぎる。

それもそうだし、結局私の中でも譲れない価値観があったり、
誰かの言動行動に疑問を感じる部分だったり異論を呈したくなってしまう部分は残念ながら存在していて、
それっていくら隠そうとしてもどこかでボロが出てしまうものだから、
どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
私の弱いところではあるのだけれど、
でもそれすらもなくしてしまったら私という人間は本当に空っぽになってしまう。
私だってエゴはあるし、意思はある。

一体私は、どこを目標にして生きればよいのだろう。
路頭に暮れてしまっている。
そりゃ底抜けに優しくなりたい。でも優しいって何なんだ。
一年間通して、私がわからなくなってしまった。

「ありがとう」より先に「ごめん」が出てきてしまうのが私の中で当たり前になってしまっていること。
前提として私との関わりが迷惑なものだと危惧しながら生きてしまっていること。
私が周りにとって浮きものだったり負担になってしまっていること。

「普通」になりたいなんて言わない。
「普通」なんてものは現に存在しないし、
そんなのは世間の戯言でしかない。

でも、何になりたいのか、
周りが私に何を求めているのか、
まるで見えてこない。

私は視野が狭いし、鈍感だし、
思い込み激しいし、自意識過剰。
故に見えてくる、届いてくる情報に偏った認識をしてしまう時が多々あって、
よく道を間違えて、後悔する。

漠然と、いい人になりたい。
でもそれがなんなのかもわからない。
どういう人間になれば、私は私に納得できるのかな。
絶対にできないことを自分自身に求めるのもバカバカしい話だし、
かといって妥協なんてしたくはない。

でも結局行き着く先は執着とエゴなのだろうな。
好きな人には嫌われたくないし、
迷惑かけたくないし、
かといって離れたくないし、
その人の頭の中の0.1%、ほんの僅かでいいから私の存在があってほしいし、
それは苦しくて醜い私のエゴに過ぎない。

醜い人間なりに、何かを見つけたい。
自己の理想像を、現実的に、でも妥協はせずに見つけたい。
それが来年度の目標だし、ノルマだし、
自分を納得する為にも、色んな人に好いてもらう為にも、
どうにかもっともっといい人間になりたい。


結局周りに愛されたいだけなんだろうな、私。


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