切実なノスタルジー
「異人たちとの夏」を早稲田松竹で観てきた。監督・大林宣彦、原作・山田太一、脚色・市川森一と有名どころの名前が並び、またずいぶん前に宮台真司が褒めていたので、長らく気になっていた。とにかく泣けてしまって、この感動をとりあえず文字に残そうと思い、書いている。子供の頃に亡くなった、幽霊となった両親との会話、何気ない仕草、表情、その一瞬一瞬が大切なものだと感じさせる。観ながら、父と酒を酌み交わさなければいけない、母に優しくしてあげなければならないと、そう感じた。
…と、これを書いたあと、文字が進まず、久しぶりに開いてだらだらと書き始める。多分なのだけれど、映画レビューとして書こうとしてしまうのが止まってしまう原因なのではと思った。結局のところ、自分は自分のことを語りたいのであって、映画について宣伝したい。感動した映画のことを書くのではなく、映画に感動した自分のことを書く。その置き換えが必要なのではと思ったのだった。
ではそのとき、「異人たちとの夏」は私にとってどのようなものだったのだろう。なによりも感動の源泉は、もし自分の両親が亡くなってしまったら主人公が感じていた寂しさを同様に感じるのだろう、むしろ今それを想起して泣いてしまっている、というのが実態なのだと思う。ふとした母の表情や声やしぐさ、父のべらんべえの江戸っ子らしさ、ともに食べに行くすき焼き、暑さのなか蝉が鳴く夏の夕暮れ…それじたいは大したものではない、しかしその日常じたいが無くなってしまった今においては掛け替えのない瞬間であること、あったこと、それら既に失われてしまったものが顕れたこと。死に至るかもしれないが、その喜びじたいを否定することはできないではないか。ノスタルジーといえばその通りだけれど、切実な感傷を与えてくれる映画。それが「異人たちとの夏」において、私が感銘を受けたことだったのだと思う。