発信すること=生理的欲求だと気づいた
おかえり投稿でも記載しているのですが、どうも「書こう」と思っているものと「書ける」ものがずれてしまうという現象が起こっています。当初は、ソーシャルメディアの違いから起こっているものなのかな?と考えていたのですが、今回は明確に「こういう内容を書こう。そして、noteはこういうテーマを軸にして発信していこう。」とプランを立てて、テキストページを開きました。にもかかわらず、導入文から見事に脱線してしまい、そのページは、一旦下書き保存して、このページを新たに立ち上げています。
思えば、初期の投稿はすべて「スマホ」で綴ったものでした。そして、おかえり投稿と今回は「PC」で綴っています。「フリック」と「タイピング」で、わたしが無意識になにかを区別しているのかーー。せっかくなので、少し「じぶんの内側に潜って」考えてみたいと思います。
そもそも、わたしにとって「発信する」というのは、考えたこと、感じたこと、を整理するためのもので、実は「誰かに読んでもらう」ということを前提として書いていませんでした。
これは「強がり」でも「謙遜」でもなんでもなく、本当にそうだったんです。要は、じぶんの内側にあるものを外に出したい「排泄欲」を満たす行為であって、世間的に主流の「承認欲」にまで行き着いてませんでした。
ここで急に「排泄欲」という話が出てきました。予想もしていない展開です。そもそも、こういう言葉が存在するのか、もちろん、書き綴る前に調べます。そしたら、出てきました。なんと、三大欲求のひとつとも言われているようです。確かに、生理的欲求ですよね。そう考えると、わたしは「発信すること=生理的欲求を満たすこと」であったということになります。
こう、書いていて、客観的に読み、衝撃を覚えました。わたしは、発信というものを、生きるうえでそれほど「必要なこと、基本的・本能的な欲求」に設定しているということに、自ら話しているにも関わらず、根本的には理解できていなかったんです。マズローに言わせると、わたしはいま、ピラミッドの最階層にいるんです。なんということでしょう…。てっきり「発信すること=承認欲求を満たすこと」、なんなら「自己実現欲求」の行為なのだと、勝手に勘違いしておりました。他者の意見や情報を鵜呑みにして、じぶんの感覚をたいせつにできていなかったんですね。きっと。
結果、「フリック」と「タイピング」以前のお話になってしまいました…。どうしてこうも、道が逸れてしまうのでしょう。きっと、まだこの内容はタイミングじゃなかったということにしましょう。(前向き)
次回こそ、導入と着地を一致させたいです。
みなさんは、どうなんでしょう。発信は、承認欲や自己実現欲につながるものですか?もしかしたら、わたしのように、生きるうえで欠かせないものに位置づけられているかもしれません。それに気づくと、発信への向き合い方や付き合い方が変わってきます、というか、いまわたしは変わってきています。これも、書き綴ることで得られたものです。生きるうえでたいせつな「気づき」をくれる、まさにだな、と思いました。