スクラップブックみたいな世界で生きてる
「ねぇ、なんか、面白いこと話して」
これ、わたしが若かりし頃よく言っていた言葉。特に男の子とかに言ってました。いま文章にして客観的に見ると結構ひやひやするけど、あの頃のわたしは言葉のまんま、そう思ったからそう言ったの。それこそ無邪気に。その人の話がつまらない思って言ったことばじゃないよ!会話がないとき、ふと言うの。なんか面白いことないかなぁーって思っちゃってさ、それを言葉にしちゃって。つまらなかったらつまらないって言っちゃって。それを笑って返してくれるのが友達なんだって。だって大前提相手のことを好きじゃなきゃ、友達でいないでしょ?それくらいある意味相手に委ねていた(いや、この感覚は今も変わらずにあるから、もうそういう性分なのだと思う)。この時点で、無邪気さとはいかに恐ろしいかが、もう嫌ってほどわかる(あと無知なところも)。ちなみに、その時のわたしをわたしは今でも嫌いではない、むしろ大切に閉まっております。きれいな箱に、鍵はかけずに。
わたしはこうやって、自分の内側に潜っていくことが趣味なんだけど、なんだかんだ、好き勝手して生きてるんだよなぁーと思わされる。とってもつらいこともあったはずだし、順風満帆な人生は歩んでないけど、少なくとも「じぶんの世界でなんだかんだ生きてる」って結論に至るの。だってさ、パッと今つらかった記憶を思い出そうとしても、あまり浮かばないんだよ。ちゃんと覚えてはいるんだよ?本当は。というか、良くも悪くも記憶は無くならないから。だけど、どこにしまったかわからないって感じ。わたしの広い宇宙にポイって捨てたようなイメージ。どっかにふわふわ今も浮いてるんだと思う。知らんけど笑
なんでこの話を始めたかというと、ここ数年、自己肯定感をあげる話や好きなことで生きていくって話が多いし、その中で語られる大抵は、若い頃は自分に自信がなくて、まわりの目を気にして、人に合わせていたって話が主流だよね。かく言うわたしも、人の目は気にするし、なんなら誰からも愛されたくて、キャラクターと化して過ごしていたけど、冒頭のことばや、学生時代の「休み時間はトイレにいるか机で寝てるかのイメージしかない」というエピソードを含む、近くで見てきた人たちの語る武勇伝的な話だけをピックアップすると、とても人の目を気にしているような人物像は浮かばないんだよ、不思議と(こういう場合は面白いエピソードが語られるからね)。だけど、人一倍気にしてたよ!なんならいまだって気にはしてるよ!ただ、なんというか、世間一般のあの一連のストーリーの作り方って、なんていうのかな…まるで自分が社会の空気の被害者的な感じで書くじゃない?あの感じが妙に嘘くさく感じちゃうんだよね(でました、かわいくない言い方)。
人間って、生物的にはとても脆いから、今のこの混沌とした世の中で生き残っているのなんて、かなり自意識高い自信満々なタイプがマジョリティだと思うんだよね(もちろん、そうではない人もいるのはわかってます)。そう考えると、世の中に発信できる、表に出てきている「自信がない」っていう話は、本来「自信がある」タイプなんだと思うの。本当はめっちゃ自信満々だけど、その自信がくじかれるのが怖いっていうのが一番適切な表現なんじゃないかな。だから、今の自分になるまでのエピソードで語られる「ダメだった(と演出している)昔の自分」って部分をうまく切り取って語っているんだよね。その方が、文章として読んでいて楽しいもん。ストーリーがあって。
そう考えると、文章って「読む人が楽しめるように」というより「読む人が求めるように」しっかり編集して作られてるんだよなぁーって思うの。
もちろん、そんなの関係ねぇ!!って人もいると思うけど、ある一定数のひとが見るレベルになるものって、もう無意識のうちに「誰かが見てる」ってことが前提になるだろうから(わたしはその域に達してないから憶測だけど)やっぱり、求められてるパターンで提供してくれてるんだろうね。
そう考えたら、文章に限らず世の中に発信されるノンフィクションやドキュメンタリーって、そういう「ジャンル」なんだろうね。もっと言うとSNSの個人投稿だって、もはや「SNSというジャンル」なのかも。だってさ、最初に話したみたいに、いま目の前にいる相手とすら、悪気なく相手に委ねて好き勝手いい合える関係って滅多にないんだもん。誰が見るかわからない世界で、相手に委ねるって実はとてもむずかしいことだし、だからこそ、人の発信を過度に深読みしたりしすぎないほうがいいと思う。どうせ、何が何だか本人すらわかってないことも多い気がするな(というか、今のわたしがそんな感じなだけかも)。
では、この話はこのへんで。
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