大切な人が増えることは、切なさが増えること
共に暮らすメンバーの中に、6歳の少年がいる。彼は、私に、多くのことを気付かせてくれる存在である。その中の1つは、「寂しい」という感情。
とある日曜日。その日はなんだか人がたくさん家に居る日だった。この家の住民は20人以上であるとはいえ、ほとんどが多拠点居住者(複数拠点を持つ人)のため、定住しているメンバーは、少ない。だけれども、この日はなぜだか、たくさん人がいた。朝ごはんを一緒に食べたり、お昼も食べたり。そんな中、何人かのサウナ好きメンバーで、サウナお出かけをすることになった!サウナ好きの私は、ウキウキと準備をして出かけて行った。6歳の少年にも、「サウナ行くよ~」と伝えたが、乗り気じゃなさそうだったので特に誘ったりはしなかった。
後日、彼のお母さんに聞いた話だが、私たちが出かけた後、彼は、「すきなひとたちがみんないなくなっちゃった」と、泣いていたらしい。その話を聞いて、私も、激しく涙が出た。
シェアすること、依存先をたくさんつくること、旅するように暮らすこと、これらみな、とても合理的だとおもう。それも、ただの「経済合理性」だけでなく、自分らしく在るための、「愛のある合理性」というか。例えば、出張が多く旅先ではホテル暮らしがデフォルトの人が、ホテルの代わりに「ただいま」と言える場所がある。都会と田舎の2拠点生活は、都会のスピード感と田舎のゆったり感を両方味わえたりもする。それは、ただの「経済合理性」ではないと思う。私自身も、渋谷・アムステルダム・鎌倉の三拠点生活をしている中で、この生活がとても気に入っている。私以外のメンバーも、イキイキと「暮らしそのものを実験」している。
しかし、彼のエピソードを聞いて、私は自分の感情に気付いてしまった。私は、大切な人と日常の時間を共にすることを愛おしいと感じている人間だった。いつもいる人がいないと、寂しい。いると、嬉しい。それは、私が元々「土の人」気質だからなのかもしれない。いずれにせよ、「みんなでシェアエコいえい!」と、それが絶対的な正義だと主張できない何かが、私の中に「在る」のだ。それに気づかせてくれたのが、少年の存在だった。
各々が、既存の価値観を取っ払い自由に生きることを応援したい気持ちと、その人と日常を共に過ごしたい気持ちが、私の中に、いつも混在している。矛盾。
大切な人が増えることは、切なさが増えることなのかもしれない。それでも私は、各々がその人らしく在ることを応援したいと思う。そして、多くの人と共に在る人生を送りたいとも、思う。大切な人がたくさんいるのは、私にとっては、幸せだ。
でも、これは、ある程度の愛のキャパも必要だし、誰もにおすすめしたい生き方では、決してない。(笑)拡張家族的生き方は、生半可な気持ちでは、できない。たくさんの矛盾と、切なさとを抱えながら生きていくということでもあるから。それでも、自分の中の「矛盾」を認めた上でこの生き方を突き進むことができるのは、嬉しいこと。
矛盾は、人間らしさでもあると思う。他人の中に「矛盾」を見出すと愛おしくなるくせに、自分の中の「矛盾」は、いつも受け入れるのがへたくそだ。
にしても、少年は、一般よりも、割りと早いタイミングでたくさんの切なさを体験しているのかもしれない。お母さん・お父さんだけでよかったのに、今は家族が70人とかいるわけだ。でも、その代わりに、一般よりも、割と早いタイミングでたくさんの大切な人と出会っているのかもしれない。彼はどんな風に変わっていくのだろう。彼と共に在る人生が、とても楽しい。
だらっと、ゆるっと、日々の気付きを書いてみた。この感じだったら、書きたいことが、まだまだたくさんある。