追悼・楳図かずお先生
楳図かずお先生に初めて会ったのは、1969年、私が19歳のときでした。
当時、マンガ専門の編集プロに勤めていた私は、高田馬場のビルにあった楳図先生の仕事場に原稿を受け取りに行くことになりました。高田馬場駅から早稲田松竹方向に少し歩いたところにあるビルの前に着き、エレベーターのボタンを押そうとしていたら、そこに、どこかに出かけていた楳図先生がやって来ました。まだ赤白ボーダー柄のTシャツは着ていなかったはずです。
「原稿をいただきにあがりました」と挨拶すると、楳図先生は「仕事場は4階(3階だったかも)だから、エレベーターで上がってきて」と言って、ご自身は階段に向かいます。「え?」と思って、あわてて後を追いました。だって、いくらなんでもマンガ家の先生が階段を昇っていくのに、若造のこっちがエレベーターを使うわけにはいかないじゃないですか。
あわてて楳図先生の後を追いましたが、その足の速いこと、速いこと。階段をスイスイと軽やかに上がっていくのです。こちらの方が10歳ほど若いのに、息が切れてゼエゼエハアハア。4階まで着いたときには、だいぶ引き離され、足ももつれるような状態でした。
あとで知ったのですが、楳図先生は閉所恐怖症でエレベーターに乗れないのだとか。電車でも立ったり座ったりしていることができず、車両内を歩き回っていたそうです。
あのときにいただいた原稿が、何の作品だったかは、まるで記憶にありません。イラストかカットだったのかなあ……? 楳図先生と直接に話したのは、後にも先にも、このときの一度きりです。
その後、練馬に引っ越してからは、クルマで吉祥寺に出かけたとき、よく車内から楳図先生をお見かけしたものです。すでに赤白ボーダーのTシャツがトレードマークになっていて、雑踏の中に立っていても、すぐに見つけることができました。『ウォーリーをさがせ』みたいな気分だったかもしれません。
その後、「別冊宝島 675」の「楳図かずお大研究: TRIBUTE TO KAZUO UMEZU」(2002)に「楳図マンガの恐怖技法」という小文を書かせていただいたことも。これは『漂流教室』をモデルにして、楳図マンガならではの構図や描法について書いたもので、「楳図かずおは〈演劇の視点〉でマンガを描いているのではないか〉という仮説を述べた文章でもありました。
そうしたら楳図先生には劇団員をしていた経験もあったことを、同じ「別冊宝島」に掲載された二階堂黎人さんとの対談で知りました。
新型コロナ禍がはじまる少し前、吉祥寺の井の頭公園あたりで「ポケモンGo」をやっていたら、いつの間にか住宅街に迷い込んでしまったことがあります。「ここはどこ?」と周囲を見まわしたら、目に入ってきたのは、あのテレビでも報道された楳図先生の家でした。
吉祥寺に行っても楳図先生の姿が、もう見られないのは、ちょっと寂しい気もします。
やすらかに、おやすみください。