こんばんは。
今回はこんなタイトルを持ってきました。
ミスをしたら罰走、負けたから罰走、やる気がないから罰走...
何か監督・コーチの思想から外れたらことをすれば走らされた経験はありませんか?
なぜ罰走というものがあるのでしょう?
こんな感じで今回は罰走と教育について少し書きたいと思います。
(Michael GaidaによるPixabayからの画像 )
今日ツイッターを見ていたら中田英寿さんも罰走について言及されていましたね。
僕自身アメリカ留学中にプロ・大学生・中高生・小学生の様々なスポーツを見てきましたが、罰走なんて見たことありません。
もちろんプロや大学生であれば、ミスをすれば厳しい言葉をかける場面は何度か見たことはありますが、小中高の選手に対して厳しい言葉や暴言を浴びせる所は見たことがありません。
アメリカでは虐待や子供の教育に対してすごくセンシティブであり、教育機関も親や教師もかなり気をつけていますし、何かあればニュースでも取り上げられたりしている影響ももちろんあると思いますが。 では罰走はどうなるのでしょうか?
何年か前に罰走を指示したアメリカの教員が訴えられるという出来事がありました。その出来事はかなり大きなニュースにもなりました。
日本では考えられないですよね。
どこまでがトレーニングでどこからが罰走に当たるのか?
どこまでが指導でどこからが身体活動の強要なのか?
残念ながらそこまで明確な基準はありません。
しかし許容できる範囲が日本とアメリカで大きく違うのでしょうね。
少し話は変わりますが、アメリカの指導者はどんな人たちなのでしょうか?
基本的にアメリカで子供に指導を行っているのは、大学や大学院で教育の勉強をしてきた人たちです。
そうでない人は基本的に指導することはでません。
僕が実習に行っていた高校のバスケ部の先生も高校生の指導をしながらオンラインで教育学の修士号を取得されていました。
もちろん大学や大学院で教育を学んだからといってその人の指導が100%正しいとは言えませんが、教育に置いて一般的に大切なことは知っていることにかわりはありません。 そのため、その人たちは身体的にも法律的にも体罰や罰走にどのようなデメリットがあるかを知っていますし、誰も子供に体罰や罰走をさせようとも思っていないでしょう。
高校の教員がオンラインで大学院に通える時間的、経済的、精神的余裕があることが日本とアメリカの大きな違いだと思います。
よく教育格差と言いますが、僕は教育者の教育格差が一番深刻だと思います。
日本の高校の教員、ましてや顧問をしている先生がそんな余裕があると思いますか? どれだけ勉強熱心な先生でもできる環境ではないですよね。
よく環境のせいにするなと言いますが、そんなことはないでしょう。
環境を作ることにより余裕が生まれ、考える時間ができ、努力し、実行することができるようになりますよね。
これは子供も大人も一緒ですよね。
指導者にこのような余裕が生まれれば罰走という安直な"トレーニング"を指導する指導者は減ってくるのではないかと思います。
罰走によるメリットとは何でしょうか?
自分の"悪事"を反省させるため?
(ミスを身体活動の強要で更生させる時点で理解できません)
頭を冷やさせるため? (これならまだ少し理解できるが、1-2時間以上はいらない。せめて20-30分間の有酸素トレーニングで運動後に認知力や判断力が上がる程度で良い)
身体で理解させるため?
(なんのために人は前頭葉が発達しているのか?)
トレーニングのためではなく、罰としてのランニングにはどれほどの価値があるのでしょうか? 僕には全くわかりません。
(Keith JohnstonによるPixabayからの画像)
本来学生スポーツとは、
1. 自分の能力を上げるために頭を使って考え、努力し、遂行する。
2. 何かを成し遂げるために他者と協力することをスポーツを通して学ぶ。
3. 自分に何が足りていないかを考える機会を作る。
教育としてのスポーツのあり方はこの辺にある気がします。
これらを行う上で罰走という選択肢を行うよりは他の方法があるのではないかなと思います。
今回は僕の個人的な意見が中心になってしまいましたね。
次回はもう少し科学的なものを書きたいと思います。
タイトルは「恐怖と脳とスポーツ」について少し書きたいと思います。
ではでは、
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