教育者とは...
私は教育者なのか?
答えはNOだと思う。
でも、社会の大人全てが教育者だとしたら、YESなのかもしれない。
たった今、「学校の枠をはずした 東京大学「異才発掘プロジェクト」の実験、 凸凹な子どもたちへの50のミッション」を読み終えた。
正直、なんだかかなり「モヤっと」したのだけれど(理由は後述する)、最後のROCKETとはなんであったかという部分を読み終えた後はちょっとだけ近いものを感じで内から込み上げて来るものがあった。
この本は、私の「旅する学校」構想を熱心に聞いてくださったフォトグラファーのイシヅカマコトさんが私に贈ってくださいました。私の心の動きも含め、今、読ませてもらって本当に良かった。。(イシヅカさん、本当にありがとうござました!)
ROCETプロジェクトとは?
いわゆる、不登校だったり、発達に凸凹があるような子達を集めた東京大学の実験的なプロジェクト、という感じです。
教育って結局大人のエゴなんじゃないのか?
私がモヤっとしたポイント、それは各プロジェクトの最後あたりで出てくるディレクターの一言である。(本の編集上、オチをつけるために使っているだけなのかもしれないが)子どもたちが試行錯誤した上で、最終的になんだったのか?という感じで書かれているディレクターの言葉に....出てくるたびに虫酸が走った。
プロジェクトを組む以上、<正解>とまではいかないまでも、狙いだったり、大人の意図が入ってしまうのは仕方ないのかもしれない。私たち大人は、少なからず「子どもたちにはこう育ってほしい」「これに気づいて欲しい」などと、良くも悪くも子どもたちをコントロールしてしまいがち。
いわゆる既存の<学校>はその際たるものではあるが、結局子どもたちは大人のコントロールの下で生きているのは仕方ないのかもしれない。
ただ、その人をコントロールしようとする意図に、とても敏感に反応してしまう自分がいて驚き、最先端とされている東京大学のプロジェクトでも結局そうなのか...(ちょっと残念)、というのが正直な感想。
安心安全な場と、ピリリと身の危険を感じる場
一方で、私たち(特に最近よく通っている森の寺小屋)では、「教育」ではなく「居場所」としての要素が大きい。居場所だったりフリースクールというのは、学校に”いけない”子どもたちが、心の拠り所として通うような場所として認知されている。勉強や学びよりも、まずは、そこに存在していることへの安心・安全・自己肯定感の回復(?)ということが求められている。もちろん、そういった「回復」「療養」の要素というか段階は大事だし、そこに訪れる子どもたちの顔や目が変わっていくのがわかるからすごくいいなぁと思う。
そして、限りなく[自由]の中で、子どもたちの成長を信じ、見守るということをひたすら続けていて、(そこだけを見ると)子どもたちが健やかに育ってとても気持ちがいい。(↑"そこだけを見ると"、の意味は一歩外へ出てしまうと、”自由過ぎる子””集団行動ができない子"のような印象を受けやすい。)
今回この本を読んでいる中で、私は学校の対比として<遊び><自由><心が休まる居場所>に重きを置いてきていたが、「ピリリ」としたエッセンスも子どもの成長には必要なのかもしれないな、と改めて感じた。
それはかつては、自然の中だったり、地域社会の中に存在していたのかもしれない。しかし今の社会の中では、大人が用意することが当たり前になっている。そして大人が用意することで、お金をだす大人が集まり、子どもを預けたい大人が群がる。そんな仕組み。
結局大人のコントロール。
でもでも、どこまでも、
子どもたちの育つ力を信じ
地域社会を信じ
自然に体と心を委ねていきたいと思う。
人間は、幼いほど優れているのでは、と常々考えている。
年少者に学びながら、今日も、活動していく。
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