寂しさは、どこからくるのか?知っていますか?恋する乙女たち。vol.3
ふと、わたしを襲う寂しさ。
気がつくと、わたしは、寂しさに溺れそうになる。
この世の中で、たった一人。わたしだけが寂しいんだ。きっと。
その寂しさに身を任せることのできなかったわたしは、スケジュール帳をあまり意味が感じられない予定で埋め尽くさずにはいられなかった。
いつも、忙しくして、一人っきりになるのを避けるかのように。
何もできない自分を覆い隠すように、誰かのことを観察し、誰かのことを判断し、そして、誰かのことをほっしたりした。
いつしか、そんなことも、自動的に、”さも”わたし自身が”あたかも”自分らしいという枠組みの中で、自らの思考を振り返ることなく選び取るようになっていった。
そんなわたしだったが、例の彼と出会い、わたしのウチから湧き出てくることに翻弄されながら、一つ一つ向き合いざるを得ない事実を目の当たりにするたびに、一枚ずつ。丁寧に、その包みをめくり始めた。
向き合うことになった途端、例の”寂しさ”があっという間に吹き出てくる。
『なぜ、そんなに自分を偽るの?』
彼の言葉に、ぐさっと、サクッと、
パンパンになっていた風船に針を刺したかのように?
ピーッンと張り詰めていた糸が切れたように?
それは優しさで溢れる切れ味の良いモノだった。
一瞬、わたしは、脱力感に襲われ、それは、イマなお続いている。
素直に、”やられた”と感じる。
極度の負けず嫌いのわたしが、彼を前にすると、力(りき)が入らない。
逆に表現すると、リラックスする。心が緩む。心地が良い。幸せ感が湧き上がる。いくらでも、そんな状態を表現するコトバが見つかる。
そんな、力(りき)が入らないわたしとなったイマ、
真剣に”寂しさ”と向き合うことにしてみた。
わたしは、水が嫌い。特に深いところに潜るのが大嫌い。
大嫌いというより、恐怖が出る。
奥深くに沈んでいる”寂しさ”を、恐怖心を抱きつつ、きっと、深〜い海底にある宝物箱に入っているはずだと仮定しながら(これはわたしの人生を楽しくするための方法)、思い切って潜ることにした。
潜る=浸る=味わい切る=分離を融和させる
涙がでたり、心臓がズキンとしたり、世界一可哀想だと嘆いてみたり、切ない!なぜわたしだけが!もう嫌っ!!
あれ?
”寂しさ”という感覚に慣れはじめているわたしを発見した。
この経験を機に”寂しさ”とは、こんな感じだと。勝手に創り出している概念が恐怖心を育て、仕舞い込み、見えないところに隠し込んで、奥底に仕舞い込む。”こむ”の連鎖を生み出していることに気がついた。
きっと、この瞬間、多くの方が同じような寂しさの何かに身を沈めている人がいるはずだと感じる。
でも、それを埋めることができるのは、
相手ではなく、自身だけだ。
相手は、増やすことや減らすことを手伝ってはくれるけど、寂しさの”おおもと”は、自分で見つけ、融合させていく。
潜って、その宝箱を取りに行くことだ。
人は、必ず、慣れる生き物。一瞬、痛みを伴うけれど、その先に、ほんのりと暖かい”なにもない”感覚が訪れる日があなたを待っている。
そんなわたしも、まだ気がつくと”寂しさ”に襲われるトキがある。
そんな時は、わたしが心地よいことで埋め尽くし、
そして、社会から求められていることをこなす。その連動で、わたしの人生を創るサイクルに身をゆだねる。
そして、今日もまた日が暮れる。
主人公:わたしとは、舞(まい)のコトである。
舞は、何をみて、何をきき、何を得ているのでしょうか?
恋する乙女たち。
言靈(ことだま)を用いて、真理を埋め込みながら、文章を構成しております。お読みになることで、生きるとは?に触れていただければとても嬉しいです🌸いずれ、解釈などもおつけできたらと考えています📚
不定期ですが、手元に湧き出てきたらお届けいたします。
お読みくださりありがとうございます❤️
未来の脚本家さえこ
フォローしてくださると更新する度に通知が届きます💌
恋する乙女たちマガジンを購読する