他人を応援するのは、もう辞めた
私はいわゆるオタク気質だ。
一度ハマると狂気の沙汰か!?というくらいハマりまくってしまう。
例えば、ユニバーサルスタジオジャパン。
大阪にいた頃、毎週日曜日にUSJに通っていた。目的は夏限定で行われるONE PIECEのショーだった。
いわゆる2.5次元という世界で、端正な顔立ちのキャストさんたちがキャラクターの格好で、レストランや大きな野外ステージでライブショーなどを行う。
好きすぎて当日チケットを始発で来る人よりも先にゲットすべく、夜中2時から自転車を2時間USJまでこぎ続けたこともある。
キャストさんにもハマっていたため、毎日キャストさんのツイッターを見ては、どうすればリプをくれるだろうか、認識してもらえるかを研究していた。(いわゆる認知厨というやつだ)
そんなことを繰り返していると、雀の涙ほどのボーナスなんて溶けるようになくなっていた。
だけど、東京に転職をしたことをきっかけにそういった行為をするのをスッパリと辞めた。理由は明白で、私が「応援」と思っていた行為はただの「依存」だと気づいたからだ。
あの人に認知されたい、
誰よりもいいファンサをもらいたい、
もっと特別扱いしてほしい。
それは全て自己肯定の低さを、他者に依存することでごまかしていた行為だった。
もちろんファンとして誰かを応援して元気をもらったり、明日また頑張ろうと癒しや薬になるものはいいのだけど、ショーに何度も通ってキャストさんに反応をもらうことは、私にとって一時的な愛情がもらえる一種の麻薬のようなものだった。
大阪にいた頃の私は、仕事でもプライベートでもやりがいなんてものは皆無で、やりたいことも宙ぶらりん。死にたいわけじゃない、でも生きるのも辛い……と苦痛で堪らない日々の中で、その行為は唯一の救いだったのだ。
しかし、それを1年半続けた結果、私には何も残っていなかった。
例えば、自己紹介をするとき、USJやONE PIECEの話を通してしか自分を説明できない。それってはたして私の話をしていることになるのだろうか?誰かを一生懸命応援していることで自分の存在を認めてもらいたいだけなのでは?
どんどん悪循環に陥るその輪を、私は東京に来ることで断ち切った。人の応援をする前に、まずは自分を応援しようと決めたのだ。
自分は何が好きか、何が嫌いか、分からないなら知らないところにだって飛び込む。いいと褒めてもらえた部分を磨いて、なにかダメなことがあっても誰かのせいにはしない。
自分を認めることは、自分に責任を持つことだ。
と言いつつ、なにかあればすぐにグズって「私なんて……」と言いだすけども。
ただ、今は周りにそれを受け止めてくれる人たちがいる。そのことに感謝して、ちょっとずつちょっとずつ私という石ころをやすりで削っていこうと思う。
将来どんな色の宝石になるのか、
時には痛みも伴うその行為を、できるのは唯一自分しかいないはずだから。
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