恐怖心とは「妄想力」と仮定する。

昔からビビリだった。

お化け屋敷には一歩も入れなかったし、心霊番組があれば喰い入るように観てしまい、お風呂やトイレに行けなくなっていた。その名残だろうか、今でもお風呂では後ろを向いて顔を上にあげていないと髪の毛を洗えない。(後ろに人がいないことの確認と、髪の毛で前が見えなくなるのを避けるためにこの体勢に落ち着いた)

恐怖というのは、いわゆる「妄想力」なのではないだろうか?

扉の隙間からこちらを覗く瞳があったら?
ガラスになにか映っていたら?
布団から出ている足を誰かに掴まれたら?

もしも、〜だったら?と考える、勝手に恐怖心が煽られさらに恐怖を呼び、少しの物音でも最悪のことを想像するようになる。

そんなビビリな私だが、なぜか新卒で「株式会社闇」というホラー×テクノロジーの会社に1年半ほど勤めることになる。入社当時は実績画像をまとめるだけで悪夢にうなされたりしていたのだが、社長のおかげでホラーとはプロが作り出したエンターテイメントと理解し、ビビることが徐々に減っていった。

お化け屋敷も一人で入り、どこからお化けが出てくるか観察できるようになったし、日本人形をプチプチに包んで発送したらり、ゴキブリの発注先を調べたり、ホラー映画も冷静に観られるようになった。

ただ、「恐怖」というものを俯瞰してみるようになってからというもの、エンターテインメントを純粋に楽しめなくなったように思う。

頭の片隅でこれを作った人がいるんだと考えながら見ると、その世界に入り込めず斜に構えた感想しか出てこない。これは「妄想力」が衰えてしまっていた状態だったのだと今なら分かる。

しかし、あれから3年。

ここ最近、昔のような「恐怖心」が戻ってきたのだ。

部屋で一人でいるときに誰か入ってきたらどうしよう。
合わせ鏡になにか映ったらどうしよう。
薄暗い階段の上に幽霊がいたらどうしよう。

そんなことを考えては、身震いをしてしまう。

恐怖心がありすぎるのもよくないが、この世にないものを妄想する力が少しずつ戻ってきたのだと嬉しくもあった。

実は数年前から小説が読めなくなったのが悩みだったのだが、久しぶりにミステリー小説を読んだらぶっ通しで読めたのだ。スマホの通知も気にすることなく、スラスラと。

読んだのは神木隆之介さん主演で映画化された「屍人荘の殺人」。

映画は見ていないのだが、映画CMのポップさは微塵もないグロも少々含んだ青春ミステリーだ。

頭の中に想像した映像は妙にリアルで、予想していた犯人候補は完全に外れてしまったが、読み終わった後に「くう〜やられた〜!」と久々に高揚感を覚えた。

たまたまこの作品が私の好みにあっていただけかもしれないが、物語を妄想する力がまだ自分に残っていたことが本当に嬉しい。

この「妄想力」と「恐怖心」は、なにかしらの因果関係があるのではないかという仮定を残しておこうと思い、noteを更新してみた。


どこかで証明できるといいのだけど。


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さどまち
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