義務教育を受けないとまともな大人になれないなんて大嘘。
ゴミ。とにかくゴミである。何が。感情が、よ。人から悪く思われないように、思われないように。そんな拗ねたような態度で生きることのほうがずっと苦しい。
最近、なんだか巷では義務教育云々がニュースになっているらしいのだが。誰がなんと言おうと俺の出番だろ、と思うのが正直な気持ちである。
なにせ、この世に(このニッポンに)義務教育を受けずに育った人間なんてそうそういないだろよと。相当レアであるとは思うのだが、いかんせん繊細な話ではあるので、普通に生きている限り、よほどのことがない限り、三森さん、学校に行かずに育つとどうなりますかなんて聞いてくる人はそうそういない。
気を使ってくれるのはありがたい。ただ、こういうことを言うと嫌われるのだろうが、嫌われてしまえと思いながら書くと、もう少し話聞いてくれてもいいんじゃねとは思う。親から暴力を受けた等の話はさ、訊く側からするとセンシティブな話題になるんだろうけれども。
正直、自分の頭は良くないとは思っている。が、それは勉強しなかったからというより、ただ単純に生まれつきさほど頭脳明晰でないということだけで。なんだろう。人と比べて図抜けた才能がある人なんてそもそもで少ないと思う。そういう意味では、義務教育を受けていないから云々で人格はさほど変わらないように思う。
自分が正しいと思ったことをそれなりに正直に書くと、生まれ育った環境はめちゃくちゃ大切なようで、それほど重要ではないと思う。大切なのは、義務教育を受けないことで人が出来る経験ができなかった、ということだけである。
例えば、働くにしても高卒以上のバイトさえ面接にも行けないなんてザラだしね。自分の意思で学校に通わなかったわけじゃないのに、なんで中卒認定されているんだよとは思った。たしかにおバカではあったが、全部、父親の意思である。
よく、意思を持つのは尊いとは言われるが、意思とは言い換えれば欲だとも捉えられる。父は、俺たち兄弟のことより、自分の欲を選んだ。たしかに、学校に行かなかったことによって避けられた何かはあるかもしれない。ただ、それは自分で選択させてほしかったな。
疎外感がえげつないのよ。社会からはみ出している感、置いてけぼりにされている感じ。オンラインで誰かと仲良くなりたくて、恥を忍んで、友達になりませんかと初々しい十代半ばの時にメッセージを見知らぬ同年代に送ったことがある。結果、無理ですの一言で終わった。学校に行ったことが一度もないんですと伝えた直後に。
こういうの、めっちゃ傷つくのよ。義務教育を受けなかったことも生きづらさの一つや二つや生んでいるの確かだとは思うが、暴力のほうが影響は断然大きかった思う。二つを比べる必要もないが、ダブルパンチで育ったので。
あまり安易に学校に行ったほうがいいとか、行かないほうがいいとか言わないほうがいいとは思う。発言は誰でも何でもありだとは思っているのだが、けっこう難しい問題。よく、子供の意思で、とか言うけれど、子供に意思なんかそうそうないぜ。
先ほども書いたけど、意思と欲は相関関係があると思う。まず、学校に行くことの意味、行かないことの意味である前提が抜け落ちているからね。子供には。親が、死ぬほど金を貯めて、それを子供に残す代わりに学校には行かせないとかだったら百歩譲って良しとしても、まずは学校に行く権利を与える。
学校に行きたくないと言い出したら、ちゃんと見守って行かせなければいいと思う。でも、親が学校なんて行ってもロクなことはないぞと言い続けたら、子供だって洗脳される。実際、俺もそうだった。学校がどういう場所かわからないまま、行きたくないと叫ばされていたから。
で、歳だけは生きていれば重ねるものだ。親の手元から離れる二十歳とかになったとしよう。基本、どんな人も大学を卒業したら、いきなり社会にほっぽり出されて、はい、生きて、となる。なかなかハードだと思うのに、学校に行かずに、無垢なまま仮に育ったとて、いきなり社会に出されるこっちの身にもなりなさいよ。
昔、義務教育を受けないなんて恵まれているわよと親しくないおばちゃんに言われたことがあるが傷ついた。得てして、学校に馴染めなかった人ほど、子供に学校に行かせないようにする予感がある。まずは学校には行かせて、それで嫌だと言ったら、ちゃんと子供をサポートしてからでも遅くはないと思う。
今、自分なりに噛み砕いていくと、学校に行けなかったこと自体が暴力だと思っている。プラス、本当の意味での暴力があって育ったわけで、そこにいきなり社会に投げ出されるつらさが加わる。正直、無責任過ぎるよなとは思う。大人はもう生き方でも何でも身を固めているかもしれないからいいが、子供の将来を奪い取るのは違う。
義務という言葉についてはどうでもいいというか、別に誰かに義務を負わされる必要もないとは思う。なぜ、義務なのか、が肝心で、学校に行くことは良いこと、であるならば、絶対に行かせたほうがいい。中途半端に歳だけ取ってから、社会のレールに戻り、普通に大卒認定なんて取れないよ。
社会にほっぽり出されたら、後は自分の人生を自分で操縦しなきゃいけない。その時に勉強のやり方も知らず、虚数も分からず、自分がどこのレベルにいるのかも分からず、すべてが独学になっても絶望感だけが残ることも多い。学ぶことに対しては努力をしてきたと自慢はできないが、生きる努力はしてきた。
生きるしかないから、生きてきた。いつ死んでもおかしくなった。人は人を支えるためにあるのか何なのかよく知らないが、自分の過去を話すだけで舐められるような人生に感じる。弱者扱いされる。可哀想な子供扱いされる。
簡単な答えなんてこの世にはない。どれもケースバイケース。その子自身を見ることだと思う。別に親になったことないから分からないけれど、義務教育を受けずに育った立場としてある程度言えることはあるのではないかと思った。
まったくもって全部書き切れた気はしない。とりあえず、思ったことをそのまま書いてみた。学校に行って馴染めずに中退するのと、初めから学校に行く機会がないことは大きく違う。俺からすると、みんな一度行ってから挫折している。世界の見方が偏屈になった。
分かってはいる。人それぞれつらいことがあるということは。痛いほど。胸が痛くなるほど。人それぞれトラウマがあり、挫折もある。そんなことは大前提だ。その上で自分の思ったことを言っている。最悪、周りの顔色をうかがい、何も言えなくなる。その状況には陥りたくない。
心が殺されないようにするのに必死。被害者意識、被害妄想でもなんでもない。生きていくのに必死。生活が成立していても、いつ心が壊れるのか分からないから必死。自分が痛々しい存在だと思える時もある。それでも言えることは言って、やりたいことはやりたい。そうだろ。みんなそうだろ。
何が正しいか、何が悪影響なのか。何がまともなのか。正解なんてないことが正解だろう。押し付けがましく優しさを提供されても困る。こちらはこちらとて受け取るキャパが必要なのだ。同じように扱ってくれ周囲と、と思うと同時に、同じように扱わないでくれ俺をと思う。
自分だけが被害者なんて言うわけがない。ただ、あるにはあるのよ。言いたいことは。それだけは誰の許可もなく言いたいじゃない。自分にとっての真実を語りたいじゃない。何も言えなくなったら、心を表現できなくなったら、死んじまうよ。
バカ扱いされても、可哀想な人扱いされても、いいが、やっぱり俺が好きになるのはフラットに俺を扱ってくれる人だね。傷つけ合うためでなく、建設的な意見をズバッと言うスタンスは崩したくない。思ったことを表明できなくなったら、それこそ地獄。
客観的に見たら、だめ人間に見えても、その人がその人になった理由なんて腐るほどある。勝手にだめ扱いするんじゃないよと思う。自分も他人も。謙虚であれ。自分のことを軽く扱うな。勝手にだめにすんな。
一番、自分を傷つけているのは自分自身だ。主観が自分を殺す。真の意味で客観視できたなら、この世にだめ人間なんていないよ。見えるものがすべてじゃない。見えないものがすべてなんだ。