秋の夜の眠りについた伽藍の隅で
いざ発信しようと思うと身構えてしまう。最初の一歩が踏み出せない。よくあるよね。こういう時は何も考えずに筆を動かす。最初の一歩を踏み出す。これに尽きる。あとは勝手に進み出す。
さて。なぜ身構えてしまうのだろうか。自分には大それたものは無く、人様に説くようなことも恐れ多い。感動も憤りも喜びも悲しみも自分の中で完結してしまうし、誰かに言いたい時は家族や友人にするので、第三者の見知らぬ人に自分の考えを曝け出すというのに抵抗があるのかもしれない。
いや、嘘だ。完全に嘘と言うわけではないけれど、根底には自分がいかに矮小な存在であるか、取るに足らない存在であるか、その裏返しで自分は面白い文章が書ける、創作が出来る等と思い上がった恥ずかしい自尊心が、あるいは謂れもしない被害妄想に心の自衛が働いている、というのが近いと思う。
古代ギリシアの哲学者エピクテトスの言葉をうろ覚えながら借りるなら。事象よりも自分がそれについてどう思うかにネガティブな感情を抱くそうだ。あいつ嫌な奴だな、嫌いだな。あいつが嫌な奴だから、自分は嫌な気分になるのではなく、自分があいつを嫌いと思うその考えに嫌気がさすんだと。当時高校生ながら勝手にそう解釈して思春期を過ごしたのを思い出した。思い込みが強かった。
自分を曝け出して、思いのまま自由に表現するということは、割りかし大学生、いや趣味のバンドを辞めるまでは続けていたと思う。好き勝手書いたブログ記事に深夜ラジオみたいと好評価を頂いたのも懐かしい。今ではすっかりご無沙汰で、どうにも気恥ずかしさが勝ってしまう。
36歳のおっさんの心情吐露にどれほどの価値があるというのか。ようやく本記事の本題であるが、なぜ書くことにしたのか。書こうと思ったのか。ダニングクルーガー効果で言うところの、エキスパートに行かざるを得ない、行くために必要な事だったから。そう思う。
とてもありがたいことに、素晴らしい仕事仲間とクライアントに恵まれ、経営陣やリーダーの考えに触れる機会も増えた。沢山の社員スタッフを抱え、多くのお客さんを喜ばせ、より良い社会をつくるために日夜励むような経営者である。志も視座も高ければ、意思決定も早い。そんな彼らの期待に応えるには、いや、失望されたくないが正解ではあるけれど、自身もまた圧倒的に成長していかないと、あっという間に置いていかれる。そう確信している。
自分の考えを羅列する、整理する、言語化する、自己表現のリハビリ。その一環。一層芯に深く意識する類の。識。仕事仲間もクライアントも、とても熱い志を持っていて、とても人間味に溢れていて、私はそんな彼等が羨ましいのかもしれない。
熱量の伝播。大学生の頃、漠然と将来は歩くメディア2.0になると考えていた。恐らく本質的には吟遊詩人で、口伝が一番残ると考えていた。ブランディングも然もありなん。熱い人達の面白い物語を多くの人にもっと伝わるよう、知ってもらいたいからね、私もまた伝道師の如く日夜励むのであります。