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谷保天満宮(東京都国立市の縄文神社?)


谷保天満宮の由来

 東京の天神さま(菅原道真公をお祀りした神社)で有名なのは、湯島天満宮、亀戸天神社と、国立市の谷保天満宮ということになる。その内、最も古いのは、ここ谷保天満宮である。意外かもしれないが、湯島のお宮そのものは古墳時代の雄略天皇の時代の創祀と伝えられるほど古いものの、天神さまが祀られるようになったのは14世紀のことらしく、亀戸は江戸時代の初め頃に創建されたそうだ。
 これに対して、谷保天満宮は901年に道真公が太宰府に左遷された折に、三男の道武公が谷保の地に配流されたことがきっかけである。武蔵国府は現・府中市に設置されていたから、国府(跡)と谷保天満宮の間の距離は今でも甲州街道を歩いて50分くらいと近い。そういう地に道武公は配流されたわけである。そして、2年後に道真公が筑紫で逝去した後も父への思慕が已まず、谷保の地に道真公を祀ったことに天満宮が始まったという。 

それでも谷保天満宮は縄文神社ではなかろうか

 ということは、谷保天満宮は平安時代に始まったわけである。なのに、武藤郁子さんが言うところの「縄文神社」の匂いがするのである。まず、1つ目の理由だが天満宮の近くに縄文遺跡がある。谷保天満宮から南東方向に徒歩十数分のところに「谷保東方遺跡」が、西方に徒歩16〜17分のところに「南養寺遺跡」が、発見されている。
 2つ目には、この神社の境内が崖線をはさんで高台と低地にまたがっている点である。このような縄文神社の多くは高台側に本殿・拝殿をもつ場合が多い。ただし、谷保天満宮の場合、昔の甲州街道が低い土地側に拓かれていいたので、そちらに建てられている。谷保駅側からお参りに来た人は現甲州街道(国道20号線)側から鳥居をくぐって下に降りて拝殿に参拝することになる。
 3つ目には、低地側に湧水の成す池がある。厳島神社という弁財天を祀った小社があり、二宮神社の"お池"にもひけをとらない澄んだ水である。かつては、境内一帯の各所から水が湧き出るほど水が豊かだったと伝えられており、さらに遡って縄文人たちの生活をも支えたことだろう。

谷保天満宮境内の弁天池(厳島神社の小社が祀られている)

崖線(がいせん)と湧水

 だが、そもそも何故、湧水があるのか。武蔵野には多摩川が流れているが、長い年月のうちに川の侵食作用によって、多摩地方には多摩川に沿った段丘が形成されている。
 武蔵野の台地の下方の、多摩川の侵食によって削り取られた低地に立川がある。更に、立川を台地として、やはり多摩川の侵食によって下方に青柳(国立市)や拝島(昭島市)の低地が形成された。台地と低地の間は多摩川に沿って線状に連なった崖になっており、それを崖線(がいせん)と呼ぶ。地元の古語では、ハケと言ったり、やや小さなものをママと言うらしい。
 雨水が台地に染み込むと、やがて水を通さない地層に達して、崖の面から出てくるのが湧水である。谷保天満宮は、ちょうど立川の崖線と青柳の崖線が入り組むあたりに位置していて、古来から水が豊かなところだったのだ。「常磐の清水」は東京都名水57選にも選ばれている。

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