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映画「ブルーアワーにぶっ飛ばす」
あらすじ
ブルーアワーというのは一日の始まりと終わりのあいだに一瞬おとずれる、空が青色に染まる静寂の時間のことだというが、その意味するところはなかなか難しい。夏帆が主演女優をつとめた映画の中でも評価が高いが、私には感情移入しづらい映画でもあった。
夏帆が演じる砂田夕佳は茨城県出身で東京でCMディレクターを仕事としているが、毎日、神経をすり減らすとともに女である自分がこの業界で活躍できる年齢的な限界も視野に入ってくる(夏帆は映画が公開された年に28歳であった)。
同僚たちとの打ち上げでカラオケに行けばマイクを握って荒れる。ベンチで寝て朝帰りすることもあるが、夫がいながら同僚の男と浮気も楽しんでいるという荒んだ私生活を送っている。
ある日、茨城の祖母の見舞いに行くことになり、夕佳の親友の清浦あさ美(シム・ウンギョン)が左ハンドルの愛車で実家に送ってくれることになる。
実家に帰ってもぎこちない夕佳は、場末のスナックにあさ美を連れ出すが、そこでも垢抜けない田舎に幻滅する。対照的に、あさ美の方は夕佳の家族にも泥臭い田舎の風情にもあっけらかんと馴染んで楽しんでしまっているのだった。
祖母の見舞いに行く日だったか、夕佳はあさ美に実家が経営している小さな牧場を見せる。そして、牛の一生をこの狭いところに生まれて育って、種付されて子牛を産んでおしまい。あとは食肉になるだけ、と揶揄する。
それは牛のことではなくて、故郷の人間たちを揶揄したようにきこえた。夕佳はあさ美に向かって自分を卑下して愚痴ったが、あさ美は夕佳のことが好きだから、もっと知りたいと思っているんだと返す。いったい、どこが好きだって言うのよと夕佳が聞き返すと、「内緒」と笑ってはぐらかす。
見舞いに行った夕佳は母親(南果歩)に頼まれて、祖母の爪を切る。それは、あたかも土いじりで年季が入ったような年老いた指だった。前後して、夕佳の脳裏には幼いころに田舎の自然の中を走り回って喜々としていた思い出がフラッシュバックのように蘇る。
夕佳とあさ美は本当に仲が良いのだが、夕佳が故郷に帰ってもいろいろと葛藤を感じてしまうのに対して、あさ美は鷹揚に田舎も夕佳の葛藤も包容してしまうのだった。
二人はまた自動車で東京への帰途に着くが、背後に遠くなる故郷を振り返って夕佳は泣き笑いしながら「淋しくないのが淋しすぎる!」と絶叫する。いつの間にか、あさ美の姿は消えて、車中には一人でハンドルを握っている夕佳がクローズアップされて映画は終わる。
感想
以下は私見である。
ラストシーンで、あさ美が消えてしまったのは初めから、あさ美はフィクションの人格だったからだろう。夕佳が二重人格であったとか、妄想を抱いていたということでは必ずしもないが、作品の文脈の中で、あさ美は夕佳自身がこうありたいと無意識に思いながら、抑圧している自己像だと思う。
つまり、あさ美はユングのスキームでいう「影」すなわちシャドウのようなものである。夕佳は故郷が嫌いで、自分の感情を抑えきれない女だが、あさ美は好対照に故郷を肯定し、おおらかで包容力が豊かな女である。あさ美に外国(韓国)人の俳優をアサインしたのも現実の夕佳とギャップがある非日常あるいは非現実の雰囲気を醸し出す工夫だったのかもしれない。
東京の仕事にも私生活にも疲れた夕佳は祖母の見舞いという機会に久しぶりに自分のルーツである故郷に戻ることになったが、結局そこで本来の自分を取り戻すことはなかった。
それどころか、どうしても故郷は自分の拠り所とはならないことを見切ってしまったのだ。それが、帰りの車中での「淋しくないことが淋しすぎる」という叫びなのだろう。そこまで見切ってしまえば、あさ美という影の人格の居場所はなくなる。
家庭をもちながら働く女がアイデンティティを見失いかけて迷っている姿を映画は描きたかったのだろうか。だが、本当の自分または自分らしさって何なのだろう、と問うても答えは容易に見つかるものではない。見つかるようなら、とっくに方向転換しているだろう。もがきながら、このまま突き進むしか夕佳には選択肢がないように見えた。
夏帆とシム・ウンギョンという二人の女優はよい演技をしていた。
【映画情報】
公開:2019年
時間:1時間 32分
製作国:日本
スタッフ
監督: 箱田優子
キャスト
砂田夕佳: 夏帆
清浦あさ美:シム・ウンギョン
砂田澄夫:黒田大輔
砂田浩一:でんでん
砂田俊子:南果歩