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短編映画「ピカレスカ Novela Picaresca」

あらすじ

 ヨーコは信州伊那の古本屋の若き主人である。黒いメガネがトレードマークだ。彼女は幼少期に母親から一斤の食パンを渡されて置き去りにされ、そのまま祖母に育てられた。グレて悪い子になってやりたかったけれど、祖母が優しかったので、彼女はよい子のまま育った。
 亡くなった祖母から引き継いだ古本屋は図書館のように大きな店で、経営は厳しい。店をたたむことも考えながら、彼女は来る日も来る日も本の虫になって、その店の中で過ごすのだった。一斤の食パンをかじりながら。
 ある日、そんな古本屋に作家だというシライがやってくる。ヨーコは本を読むだけだったけれど、書く側の人間に初めて会って気分が高揚した。しかし、シライは編集者から、今までの日常的なストーリーではつまらないから、悪者が登場する小説を書いてほしいと注文されて困っているそうだ。
 シライはそんなことを語りながら店の窓からバスを暗い表情で眺めるのだった。すると、ヨーコはシライの創作のためにも、なりたかった悪い子になってバスジャックをやってやろうと思いつく。どうしたらバスジャックなんてできるのか彼女は一所懸命に本を読んで調べながら考えたが、まずは仲間をつくることにした。
 古本屋の客で何かわからないが不満を抱えている看護師のカナエを誘うと喜んで仲間になった。また、バスの中で韓国語で何か大声で叫んでいたという韓国人青年のキムをスカウトして、三人でバスジャックを試みる。
 でも、頭で考えて予行演習らしいこともするのだけれども、実際にだいそれたことをやろうとしても、そのとおりには行かないで失敗ばかりしていた。その内に、キムの父親が倒れたと連絡が入り、彼は韓国に帰らなければならなくなった。
 バスジャックへの挑戦は、今日で最後にしようと三人はバスに乗り込んで気勢を上げたのだが、バスには運転手のほかには乗客が一人いただけだった。拍子抜けした情況だった上に、一人だけ乗っていた乗客はまさかのシライだった。しかも運転手は「バスジャックいいですよ。どこまで行きましょうか?」と応じたのだった。
 バスは美しい伊那谷を見下ろす山道で止まり、運転手はカナエとキムに向かって「お客さんにありがとうございますと言ってもらうこともあるけれど、私自身は毎日同じところを回っているだけなんです」と思いを淡々と打ち明ける。
 バスに残ったヨーコはシライから、彼がこの町を訪れたのは、難病を抱えた妻が5年前から入院しているのを見舞うためだったこと、だからバスに乗るのはいつも辛かったということを聞いた。ヨーコの店の窓からバスを眺めたシライの表情が暗かったのはそういう訳だったのだ。
 ヨーコたちの、悪い子になろうというバスジャックの試みはこうして終わった。その後、キムはまた日本に来て韓国語を教えるようになり、カナエは不満を抱えながらも看護師の仕事を続けている。ヨーコも借金を増やしながらも古本屋を続けていくことにした。
 月日が経ったある日、パンを買って店に戻ると帳場に花束が置かれていた。いつぞや、シライが花屋を探していた時に、とっさに店のチューリップを包んで渡したことがあって、そのお返しに違いないとヨーコは思った。
 ヨーコはパンを抱えたままバス停まで全速力で走ってバスに乗り込んだ。車内を見渡してから彼女はシートに座ってパンをかじり始めた。ゲーテは、涙とともにパンを食べた者でなければ人生の本当の味はわからないと言ったが、「私は涙なしでパンを食べられるようになった」というヨーコの独白で映画は終わる。

感想

 30分ほどの短編映画でヨーコのモノローグとともにストーリーが進行する。鄙びていながら伊那の風光は美しく、ヨーコが営む古本屋の内装はアンティーク感に満ちて厳かである。映像的によく出来た映画だと思った。
 シライは日常を描く小説にダメ出しをされて、主人公が悪事をはたらくピカレスクロマンを書くように編集者から要求されたわけだが、世の中の多くの人間はルーティーンの繰り返しのような日常を送っているのである。
 そのことに内心、物足りなさを感じている人もまた多いだろう。そうして、ヨーコたちのように冒険を夢想したり、勇気を奮って試みたりすることもあるかも知れない。だが、大方はこの映画のように元の生活に戻るものなのだろう。
 それが多くの人の人生で、それでよいのだと思う。冒険が成功して、今までのルーティーンから脱出しても、また新しいルーティーンが始まるのだから、と私自身は思う。この映画の場合、バスジャックを起こすことは考えても、その後のことは考えていない。一服の余興であり、元の生活に戻ることが予定されているストーリーなのだ。
 他方で、ヨーコとシライの関係は行間を読みたくなる。シライはちょくちょくヨーコの店に顔を出して、ヨーコとは作家と読書家らしい会話を交わしていた。だが、ある日を境にシライは店に姿を現さなくなり、あの最後のバスジャックの日まで二人が会うことはなかったのである。
 シライと店で会った最後の日に、二人は「悪とはなにか?それは弱さから生まれるすべてのものである」というニーチェの言葉について語り合った。そして、シライはニーチェの「その言葉が本当だとしたら、ぼくはもう悪い人間になっている。ぼくは人生を楽しんではいけない人間なんです」と謎の言葉を残していった。
 その時ヨーコはまだシライの奥さんが難病と闘っていることを知らなかったから、シライの言葉の意味がわからなかった。憶測すれば、そういう奥さんがいながら、ヨーコに好意を抱いた自分は弱い人間で、ゆえに悪い人間なのだ。自分にはヨーコへの好意を貫く資格はないのだ、とシライが考えたと解釈することも可能だろう。
 だが、ニーチェの言葉は運命に抗う「超人」を善として称えるものだから、むしろ、ヨーコに抱いた好意を貫くことができない弱い自分を悪だとシライは思ったのかも知れない。逆説的になるけれど、日常を超えられない弱くて普通の人間たちこそ実は悪い人なんだよ、ということになるのかも知れない。
 店に届けられた花束を見てバスに飛び乗ったヨーコはゆっくり自分の座ったシートの後方を見たがそこにはシライはいなかった。 けれども、彼女は前方はチラッと見ただけですぐパンをかじり始めて、「涙なしにパンを食べられるようになった」と独白するのだった。
 仮に、この映画が、シライとヨーコとの間にロマンスが生まれ育っていく予兆で終わったのだとしても、果たしてそれがハッピーエンドなのか、それとも新たな日常の始まりに過ぎないのか、ニーチェの言葉に絡めたシライの思いが上述のどちらなのかによって、解釈が変わってくるような気もする。

【映画情報】
プロデューサー    伊神華子
監督    倉田健次
出演    広澤草, 結城貴史, Youngbo
提供    KURUWA.LLC

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