フォークソングとSSW
1.フォークソング=メッセージソングという図式への違和感
私のフォークソング経験というと、子供の頃に洋学として入ってきたカレッジフォークやその日本版のような「バラが咲いた」(マイク真木)およびその後、高校生の頃に流行った、かぐや姫・井上陽水・吉田拓郎などである。その間に関西フォークなるものがあって、フォークソングはプロテスト・ソングまたはメッセージ・ソングとして認識された時代があったことは、ずいぶん後になってから知った。
堀井憲一郎氏というコラムニストがいらっしゃるが、私と同じように「団塊世代」の後塵を拝する世代の人である。彼が我が国のフォークソングを回顧した文章をネットで公開していたのだが、フォークソングが反体制のメッセージソングだというのは一面的な話ではないか、と述べている(cakesがサービス終了したので現在は読めない)。なんだか、私が感じていることを言ってくれているようだ。
彼は1970年代に中学生だった世代<団塊世代よりは10年ほど後の世代>として回顧するに、むしろピーター・ポール・アンド・マリー[略称PPM]などのようにハーモニーが美しいモダンフォークが、まずは米国から日本に入ってきたのだった。それを日本で受容した代表例がマイク真木の「バラが咲いた」だという実感を述べている。
しかし、日本におけるフォークソングの歴史を概観する本には、PPMのようなモダンフォークあるいはカレッジフォークが端緒として紹介されているものの、メインストリームとしてはウディ・ガスリーやピート・シガーのようにメッセージ性があるフォークソングが受容され、高田渡や岡林信康らが作るプロテストソング、メッセージソングが日本のフォークソングの主流になった系譜が描かれている。
例えば「日本のフォーク完全読本」という2014年に出版された図書において、小川真一氏は「ありていに言えば、うたごえ運動的な気質がアメリカン・フォークのフォーマットと合体して出来上がったのが、日本のフォークだと言ってもいいだろう」と述べている。
2.なぜメッセージソングがフォークの主流と言われるのか?
たしかにカレッジフォークはその後、メッセージ性が強い関西フォークに凌駕され、そちらが日本のフォークソングのメインストリームになっていった感がある。しかしながら、堀井氏は、同時期に広がった「うたごえ運動」がそもそも<インターナショナル的なもの>で当時のコミュニズム運動の一環であったことを指摘するとともに、硬派なフォークソングについて次のように述べていた。
だから、フォークソングが硬派で社会的なものだと後世理解されるようになったに過ぎないと述べている。軟派を自認しているらしい堀井氏は「社会的なメッセージを込めたものが正統派のフォークソングだと言われると、何ともいえない違和感に囲まれてしまう」そうで、堀井氏と同じように1970年に中学生だった自分にとってもフォークソングはまず私的で叙情的なものであり、その点で堀井氏に完全に共感する。
3.メッセージソングの衰退と社会の変化
実際のところ、フォークソングの一時代を築いた<硬派で社会的な>関西フォークは時の流れとともに、<私的で叙情的な>新しいフォークソングにとって替わった。その新しいフォークソングの流れの嚆矢となり転機となったのが吉田拓郎だったことは大方の共通認識のようである。そして、それに並行して<ポピュラー音楽は米帝の文化侵略、歌謡曲は大衆迎合>と批判していたという政治的な「うたごえ運動」も70年代に衰退して行った。
この間の社会の変化はどういうものだっただろうか。代表的な関西フォークの担い手だった岡林信康は1946年生まれ、高田渡は1949年生まれで団塊世代に相当する。日本では堺屋太一による団塊世代という呼称が定着しているが、第二次世界大戦後は世界的にベビーブームが見られた、その世代である。大戦は終わったが引き続き東西の冷戦が惹起され、その代理戦争の性格を帯びたベトナム戦争の60年代が到来し、若かりし団塊世代が反戦の思いを歌に託していったのは自然な流れであったろう。
冷戦を背景にした反戦志向が反体制やプロテストという方向にむかったことも、これまた自然な成り行きであったろう。同時に、団塊世代が生まれ育った時代の日本はまだまだ封建的な気風の残滓があり、彼らの行動も集団主義【注2】、あるいは共同体志向だったに違いない(会社で団塊世代の上司に仕えた方は覚えがないだろうか)。
コミュニズム(共産主義)だって新たな共同体の再構築という理想が少なくとも黙示的なモチベーションになっていたのではないだろうか。団塊世代に支持された硬派で<社会的な>フォークソングの基盤には、そういう彼らの世代共通の気風があったのではないだろうか【注3】。
しかしながら、およそ1955年から1972年までの間、日本は高度経済成長期を過ごすとともに、農村がある地方も都市化され、イエによる束縛が緩くなり<個人>という意識のもと、国民は消費社会で自由を謳歌するようになった。吉田拓郎が登場したのは、高度成長期の後半にあたる1960年代後半であり、フォークソングの私的で叙情的な傾向への転換は、その後、80年代の分衆社会【注4】にいたってより洗練された形で強固なものになっていったと言えるだろう。
4.商業主義批判とフォークゲリラ
こうして東西冷戦やベトナム戦争を時代背景とした政治意識はフォークソングをメッセージソングとして規定したのだが、この政治意識はフォークソングに反資本主義的な性格をも規定しようとした。それは歌謡曲などを、大資本によるお仕着せの商業主義的(=金を儲けるための)音楽として批判し、フォークソングは自分たち若い世代が手作りしたもので金儲けとは無縁だとする主張である。
象徴的な事件が1971年に開催された第三回全日本フォークジャンボリーで起きた。この大きな野外イベントは1969年の8月に始まったもので、岐阜県のさる湖畔で毎年8月に催されていたものだが、第三回の8日夜10時ころ演奏中にジャンボリーを商業主義的だと批判する一団が演奏中にステージを占拠して、演奏が中断された後、延々と無意味な討議が続いてなし崩し的にライブが終わってしまったというものである。
その一団がどういう人たちだったのかは、いくつかの書籍にあたってもふれられていないのでわからない。ただ、ステージを占拠して、彼らにとっては意味があっても他の聴衆には意味がない討議を始めたという行動を考慮に入れると、学生運動を経験した人たちだったのだろう。
この71年という時期は安保闘争に挫折した学生運動が急速に退潮した時期だったが、それと裏腹にフォークジャンボリーからは政治色が薄まり、聴衆の数も2万5千人と第二回の3倍強に一気に増えたのだった。それには、60年代後半から人気を集めた吉田拓郎らの存在が大きかった。
ステージを占拠した一団は安保闘争が終わって、新たに商業主義=資本主義を批判することによってコミュニズムの方向に大衆の意識を向けさせようと試みたのかも知れないが、吉田拓郎以降に新たに増えたフォークソングのファンはそれに呼応する層では既になくなっていたのだ。
なぎら健壱によると当時のコンサートでは「フォークゲリラを名乗る偏った考え方しかできないような連中」がステージを占拠するということが何回かあったそうである。彼らは、売れるということは商業的でフォークの精神にそぐわない、フォークと看板を掲げて入場料をとるのはおかしいとまで主張していたらしい。それでは、プロのフォークシンガーは「おまんまの食い上げ」になってしまう死活問題だと、なぎらは批判しているが当然のことだ。
結局、社会の変化に対応できず、巨大化して主催者の手にも負えなくなったフォークジャンボリーは、このステージ占拠事件が起きた第三回をもって終了した。おそらくフォークゲリラと呼ばれたような人たちは音楽としてのフォークソングを愛していたのではなくて、フォークをネタに社会を批判する政治運動を行って自己満足に陶酔したかったのではないか。
5. フォークシンガーからSSWへ
フォークシンガー自身は率直な気持ちとしてプロテストソングやメーッセージソングを作り歌ったのだろうが、聞き手の中には反戦を反帝国主義に、反商業主義を反資本主義に結びつけて政治的な運動に関連づけた人たちも一定数いたということだろう。
また、団塊世代はなんだかんだ言っても封建的な気風を引きずっていて集団主義的な志向があるから共産主義とも一定の親和性があるのだろう。だが、彼らよりも若い世代には豊かな社会で個人を尊重する考え方が育っていた。ここに世代の推移と社会の質的な変化がある。
プロテストやメッセージをフォークソングの本質と言いたい人にとっては、吉田拓郎以降の日本のフォークソングは本来のフォークではないのかも知れない。「演説歌とフォークソング」という本を上梓した瀧口雅仁は、吉田拓郎以降のフォークソングの流行を70年代に政治闘争に挫折し行き場を失った若者が自分と等身大に感じられる歌を聴くことによって自己存在を確認できる場を見出したものと総括している。
瀧口は1971年生まれと若い論者だが、なんのことはない。団塊ジュニア世代だから、親の影響でこのようなステレオタイプな見方をするのだろう。それゆえ、プロテストやメッセージをフォークソングの本質とみる瀧口は政治的文脈からしかフォークソングを観ることができない。世代が変わるとともにリスナーも変わったこと、および背後にある大衆社会の変化を見ていないのである。
明治以降、唱歌という形で西洋音楽を導入して来た我が国には第二次大戦以降、アメリカからジャズと並んでフォークソングというモダンな大衆音楽が流入してきた。そして、今や日本人によって消化吸収されオリジナル作品が創作、演奏されている。
現在でも自分自身をフォークシンガーとして位置づけながら活動しているプロおよびアマチュアの音楽家がいるが、吉田拓郎から現在に至るまでの間シンガー・ソングライター(SSW)によって紡がれてきた音楽は叙情派フォークだとか、ニューミュージックだとか、あるいはJ-POPだとか様々にラベリングされてきた。だが、そうする必要があるのだろうか。むしろ、ジャンル分けなどできないと感じる今日このごろなのだが。
メジャーレーベル主導による、かつての歌謡曲は職業的な作詞家、作曲家と歌手が片方の極に居て、もう一方の極に受動的な消費者がいた。それを商業主義と批判するのは勝手だが、アメリカを含めた西洋音楽と楽器が普及した結果、一般大衆の中に音楽の自作自演を行う才能=SSWが生まれるに至ったのである。
そうした戦後日本の大衆音楽の大きな流れの中で、ある一時期に一定の社会的条件のもとでプロテストソングやメッセージソングといわれる歌がもてはやされたということだと思う。政治との関連を求めずに私的な叙情を歌い多くの人の共感を得た曲に、わざわざフォークソングというラベルを貼って本質的ではないと評するとしたら、なんと不毛なことではないか、と思う。
注1)<インターナショナル>;1871年にフランスで作られた革命歌で万国の労働者の歌としてメーデーなどで愛唱された。また、かつて第一次から第四次まで存在した、労働運動や社会主義政党の国際的な連携をはかる組織を指す。
注2)collectivismという言葉にはいくつかの意味があるが、ここでは個人主義(individualisim)に対立する概念として集団主義という訳を用いた。「俺が、俺が」と自己主張が強い団塊世代だが、下の世代からは群れるのが好きに見えて仕方ない。
注3)後述するフォークジャンボリーというフォークソングの野外イベントは、いつも最後に岡林信康の「友よ」を出演者と聴衆が大合唱して締めくくられたそうである。
注4)1985年に博報堂生活総合研究所が発表したレポート「分衆の誕生」により定義されたとされる。この頃、自動車やテレビが一家に一台から、複数台あるいは一人一台へと変化していった。
参考図書;
「日本のフォーク完全読本」2014年シンコーミュージック・エンターテインメント刊(馬飼野元宏監修)…拙文のカバー画像は本書の表紙から
「五つの赤い風船とフォークの時代」2012年アイノア刊(なぎら健壱著)
「演説歌とフォークソング」2016年彩流社刊(瀧口雅仁著)
参考; 「小室等さん/元祖夏フェスを語る」(NHK読むらじる)
(2022年5月執筆)
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