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邪馬台国の謎 (25)

 色々な説の紹介も今回の九州説で一区切りです。
ざっくり過ぎるのですが、九州説と畿内説は次回以降の検討の中で詳細な部分についても触れていきたいと考えています。

 さて、邪馬台国九州説です。

邪馬台国九州説では、邪馬台国のその後について、いくつかの流派に分かれます。

  1.  邪馬台国が発展、神武東征を行ない大和政権の祖となった。

  2.  邪馬台国は東遷・東征を行なわず、のちの大和政権の九州入りで滅ぼされた。

  3.  邪馬台国は大和政権と関わりなく滅びた。(大和以外の国に滅ぼされたか内紛等で自壊した)

大体、この3パターンか、特に何も語らないか、となっております。

邪馬台国九州説で著名なのは、安本美典氏です。
安本説は非常に完成度が高い説だと考えられます。

主な主張は、

  •  甘木、朝倉周辺を邪馬台国に比定。

  •  北部九州の地名と畿内の地名の類似から東遷説を主張。

  •  欠史八代は実在するが、もっと短命である。

  •  卑弥呼は天照大神のモデル。

というものです。
個人的には、相当に完成度が高い説だなあと感じております。

邪馬台国と大和政権が同一血統である。

という点については、疑問符がつくものの、話のつじつまは合っていて、さすがだなあと感心しています。

他の論者を見ていくと、
若井敏明氏は邪馬台国が大和政権の九州入りで滅ぼされた説を取っています。

古田武彦氏も著名で、博多湾近傍に邪馬台国ではなく邪馬壹国があったと唱えました。

宝賀寿男氏は、久留米の祇園山古墳こそ卑弥呼の墓であると唱えています。

同じ九州説でも博多周辺から、甘木、朝倉、久留米、佐賀や筑紫平野、八女、宇佐等々、非常に多くの説があります。

その一方で、反論も数多く存在します。
特に大きな問題点とされるのが下記です。

  •  魏志倭人伝に記載の里程が九州内に収まりきらない点

  •  魏志倭人伝に記載の戸数を養うだけの大規模な穀倉地帯がない点

この辺りをどう解釈すればよいのか、という点で揉めることが多くなります。

最近では纏向遺跡が最右翼として取り扱われていますが、九州説の魅力は尽きない、と個人的に考えています。

さて、現時点で邪馬台国論の個人的優劣を述べていくと

  1.  邪馬台国北部九州説

  2.  邪馬台国日向説

  3.  邪馬台国吉備説

  4.  邪馬台国近江説

  5.  邪馬台国越前説

  6.  邪馬台国纏向説

の順番かなあと考えています。
九州説の可能性を高く見ている状態です。
近畿周辺の説については、
纏向説を最下位に置いています。(邪馬台国の敵対勢力を纏向に設定)
南国イメージがあるという点で、吉備を
穀倉地帯になり得るという点で、近江と越前を

それぞれ候補地として据えている感じです。

邪馬台国の謎を解いていくには、
考古学的アプローチと文献学的アプローチ。
両方が必要になるのですが、

個人的には、【流れ】を重視しています。

歴史は過去から現在、そして未来へと時が流れていきます。
時には逆流しているかのように感じることもありますが、概ね、大きな流れの中に配置できると思うのです。

前回の畿内説紹介の後半で

北部九州から畿内までの連合王国が、西暦200年代半ばに完成していた場合、狗奴国という邪馬台国に敵対しうる国家、あるいは連合国を比定出来なければ、辻褄が合わないというのが、【流れ】から考えられるのです。

一小国レベルで邪馬台国連合に敵対しようなんていう酔狂な王はいないでしょう。
邪馬台国が近畿圏にまで勢力範囲を及ぼしていたという説を採る場合、必ず狗奴国の軍事力が強力であり得た理由を明確にしておかないと【流れ】に合致しない、と思うのです。

その点、北部九州を邪馬台国連合に見立てた場合、南部九州を敵対勢力として比定しやすい。
【流れ】への合致度が高いのが北部九州説となるわけです。

まあ、狗奴国がとてつもない武器・防具・戦法をもっていて、十倍以上の敵を打ち破る精強な軍事氏族であったとか、南部九州から四国、紀伊ぐらいまでの大連合であったという場合、近畿周辺説は【流れ】に一致しそうです。

なお、邪馬台国阿波説も魅力的ながら、地理的には狗奴国連合の方に加担する可能性が高いので割愛したのも【流れ】の観点からです。

それにしても、色々な可能性が考えられるので、邪馬台国の謎は興味が尽きないですねえ・・・



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