邪馬台国の謎(23)
久しぶりに今日は、邪馬台国の謎についての記事です。
四国説・畿内説(近畿圏にまで範囲を広げたものを含む)・九州説は、その学説の分量が急激に増加し、ざっくりと説明するのが困難になるぐらい、様々な角度から論じられています。
そのため、今までの紹介記事以上に、取りこぼしが発生するなあと考えています。
そして、それ以上に、何から手をつければ論理の筋道が立ちやすいのか?
記事に書こうと思った途端、相当に悩まされるものになってきております。
松賢堂講義にあまがさき産業フェアと多忙を極めたこともあり、空白時間を設けましたが、なかなかに踏み出せなかったのは、四国説以降の学説数の多さに起因しています。
とはいえ、一歩を踏み出さねば何も始まりません。
不十分・不完全は覚悟の上で、話を始めていきたいと思います。
早速、四国説に取り掛かっていきたいと思います。
畿内説や九州説よりも学説の数が少ないので、まだ取っつきやすい方だからです。
四国説を推す人たちの主張骨子として、
魏志倭人伝の国名と各地域に伝わる伝承の地名が一致している。
邪馬台国連合に従わない勢力として、のちの大和政権を想定可能。
前方後円墳のルーツが徳島にある。
丸山墳丘墓が卑弥呼の墓である。
古代の水銀鉱床(朱)が見つかっている。
が、挙げられます。
実際、国名と地名が、どれぐらい似ているのか?
まとめておられるサイトがありましたので、紹介します。
なかなかに魅力的な学説だなあ、と感心しております。
たしかに、畿内説や九州説で詳細な地名比定をしている学説は知らないです。
(あるのかもしれませんが、このサイトの管理人さん同様、私も知らないです。)
また、周旋五千里という表現も四国という土地を見れば、そういう表現は妥当であり親和性も高いです。
もっと掘り下げて考古学的発見で足場が固められていけば、第三の有力地として畿内説や九州説と互角の採り上げられ方をするようになるんじゃないだろうか? と考えています。
少し話がそれますが・・・
現状の私の邪馬台国比定の第一ラインとなるのが、西日本一帯と広範囲になります。
さすがに東日本はないかなあと思っています。
次に西日本ではあるものの、出雲や越前といった厳冬の地域はどうなんだろうか? という疑問を持ったりしています。
魏志倭人伝における邪馬台国周辺の国々の記述には、南国の雰囲気があります。
この「邪馬台国は暖かい地域」という印象が、東日本を比定地とする学説に疑問符を抱く一因となっております。
そういう目で見た場合、四国は南国です。
しかも、大和には纏向遺跡等もあるように、一定規模の勢力圏があり、大和を狗奴国に比定するのであれば、邪馬台国が阿波にあったとする説は荒唐無稽とは思えないものがあります。
だから、私としては、邪馬台国四国説。
あってもおかしくはない、と考えています。
ただし・・・いくつかの問題点もあります。
萩原墳墓群は、3世紀中葉という説があるものの、木槨が4世紀前半ぐらいまで計測誤差を含むとされることから、邪馬台国の時代としては少し年代がずれるのではないか? という反論もあります。
また、四国という土地は、農産物の生産量で九州や畿内を圧倒することが難しい土地です。
治水の発達した現代ですら、簡単に水不足が発生する土地柄なので、九州の諸勢力を束ねられるだけの経済力を保有できたのだろうか? と疑問に感じる点もあります。
そう考えると、九州勢が四国に渡って来て、土地を開墾し国家を樹立した。
いわゆる属国としての四国という方が経済規模を考えると納得しやすいものがあります。
仮に、四国が主で九州が従であるとするならば、何らかの権威があり、九州の諸勢力が従う理由があったという説明が必要になるかもしれません。
この辺り、まだまだ解明が進まないと分からない所です。
でも、比定地や周旋五千里。
この辺り、面白いです。
(ただ、比定地の発音等は我田引水になりやすいので注意も必要ですが・・・)
もう少し、掘り下げて多くの四国説を調べてみたいですね。