清盛と信長
今日は、今週土曜日の講義に出てくる三英傑の一人、織田信長に関する小ネタをば。(講義でもお話する予定なので、ネタバレですけどね・・・)
さて、私の個人的意見ですが、織田信長は、平清盛に似ていると思うことが、よくあります。
平清盛といえば、武士で初めて日本の政治を動かした人物です。
清盛以前の武士は、天皇や貴族の指揮下にあり、政治を動かすことは許されませんでした。
(もっとも、平安期の政治は政治と呼べるほどではなかったのですが・・・)
一方の織田信長は、戦国乱世を終わらせるきっかけを作った人物です。
明確に天下を統一するビジョンを持っていました。
この二人の共通項は、【自由貿易主義】
にあると言えるでしょう。
平清盛は、日宋貿易を行ない、莫大な富を築き上げています。
当時の貿易中心地である博多を抑えるため、大宰大弐という官職に就き、有利に交易を行なっていきます。
一方、織田信長の場合、西国支配が進まないうちに本能寺の変で暗殺されていますので、海外交易は、堺商人を通じてしか行なっていません。
ですが、国内交易では、地元の熱田・津島を始め、琵琶湖流通の要である大津を抑えたりして、交易の活発化とその支配を強めています。
この二人の共通項は、【貨幣改革】
平清盛は、日本国内で流通する通貨の不在を、宋からの銭、宋銭の輸入によって補っています。
もちろん、清盛以前から、銅銭は輸入され、使用されていました。
ただ、銅銭は貨幣としては輸入されていませんでした。
当時は、【末法の世】とされ、人心は荒廃し、せめて死後は極楽浄土へ生まれ変わりたいと願い、仏教に願いを託す人が増えていたのです。
人々は、お墓に経塚をつくり、写経した経文を納めたのです。
その際、経典を入れる経筒の材料として、銅が使われたのです。
銅銭は、鋳つぶして経筒にするために輸入されたものだったのです。
これを、本来の貨幣として使用し始めたのです。
誰が最初に貨幣として使い始めたのかは、定かではありませんが、大々的に公認し、流通貨幣に仕立て上げたのは、平清盛を嚆矢とします。
一方の織田信長ですが、貨幣改革は中途で終わっています。
本能寺の変で志半ばに倒れてしまったことが大きいと思います。
信長は、従来の銅銭一択の貨幣から、金や銀での高額決済を導入し、交換レートを設定しています。
また、高額決済を一般化するため、茶器の購入にも金を使用しています。
これら一連の貨幣改革は、秀吉の代になり、全国支配と金山銀山の大開発により、結実し始めます。
最終的には、徳川家康が金座・銀座を設け、本格的な貨幣経済の幕開けを迎えることになるわけですが、先鞭をつけた信長の着眼点は、さすがだったと思います。
この二人の共通項は、【経済観念の発達した父親】
平清盛の父親・平忠盛は、敦賀の国で、海外交易の旨味を知ることになります。その後、天皇や有力貴族に、交易で得た品々を贈答し、着実に出世街道を歩みました。
清盛ほどの大規模な商いはしていませんが、父親の成功体験が、清盛が商業に目を向けた要因となっているのは、間違いないでしょう。
一方の織田信長の父親・織田信秀ですが、彼の場合は、津島・熱田といった神社や港湾都市からの租税で利益を上げていました。
商業都市からの税が、大規模な耕作地がなくても巨万の富を築くという事を、信長に実感させたのが、織田信秀になります。
そのため、織田信長は、足利義昭を上洛させた際、官職や領地ではなく、堺や大津といった商業都市に租税をかける権利を要求しています。
他にも共通項は、いくつかありますが、今日はこの辺りで。