ラーゲリに収容された3人の物語
先日、「ラーゲリより愛を込めて」を観てきました。終戦後の混乱の中、シベリアに抑留され、ラーゲリ(ロシア語で「強制収容所」を意味)で亡くなった山本幡男の生きざまを描いた奇跡と感動の物語です。
どんなに苦しくて過酷な状況に陥っても、人間らしさと希望を失うなと諭し続けた主人公の姿に胸を打たれました。
今回は、はじめにシベリア抑留について概説した上で、山本幡男を含め、シベリアに抑留された3人にスポットを当て、お話したいと思います。
1 「シベリア抑留」とは
第2次世界大戦の終戦後、投降した日本の軍人や民間人らが、シベリアなどのソ連各地(一部はモンゴル)に連行され、長期にわたり労働を強いられたことをいいます。
旧・厚生省の資料によれば、抑留された日本人は約575,000人に上り、極寒で劣悪な環境下で満足な食事や休養も与えられず、苦役を強いられたことで、約58,000人(10人に1人)が死亡しました。
その後、ソ連は1947年から、国交が回復した1956年にかけて、473,000人を日本に帰国させ、1958年末までには全ての日本人が解放されました(実際は、後述する蜂谷彌三郎など、1991年のソ連崩壊まで帰国出来ない日本人も多数存在した)。
2 ソ連の蛮行
そもそも、日ソ間には中立条約があり、日本はソ連と戦争していなかったはずですが、原爆が投下され、いよいよ日本の敗戦が濃厚となった1945年8月8日、突如、ソ連は中立条約に違反して日本に宣戦布告し、日本の支配下にあった満州や朝鮮半島に侵攻したのです。
満身創痍の日本は、8月15日に降伏したにも関わらず、ソ連の侵攻は続き、9月5日までに南樺太と千島列島まで占領されてしまいました(北方領土問題は、この時まで遡る)。
ソ連の「蛮行」は、この火事場泥棒的な侵略行為に留まらず、「敗戦国の兵士を速やかに帰還させる」というポツダム宣言に違反し、大陸に残留していた日本人を片端から貨車に詰め込み、ラーゲリに移送して強制的に働かせ、社会主義思想教育を行ったことです。
☝ 近隣の大陸国に支配されるとはどういうことか、が良く分かります。
3 ラーゲリに収容された3人の物語
(1) 山本幡男
映画の主人公となった山本幡男(やまもとはたお)は実在した人物で、ストーリーも実話に基づいています。
山本は、島根県の沖合に浮かぶ隠岐諸島・西ノ島の出身で、東京外国語学校(現・東京外国語大学)でロシア語を学んだ。
1936年に満州にわたり、南満州鉄道の調査機関である満鉄調査部に入社。ロシア語を使った語学力を発揮し、ソ連の社会・経済・軍事などの書物を執筆して高い評価を受けた。
大戦末期の1944年、二等兵として軍に召集され、ロシア語の語学力が買われて1945年にハルビン特務機関に配属された。
しかし、敗戦後の混乱の中でソ連軍に捕まり、スヴェルドロフスクのラーゲリに収容されてしまう。
山本は、満鉄調査部やハルビン特務機関での翻訳活動をスパイ行為とみなされ、戦犯として重労働25年の刑を下された。
しかし、如何なる苦境に陥ろうとも、帰国への希望を失わないよう周囲を愉し続け、いつしかラーゲリ内の日本人たちの精神的な支えとなっていった。
1953年、山本は喉の痛みを訴えてラーゲリ内の病院に入院。病状は悪化の一途を辿り、1954年、収容所内の病室で死去(享年45歳)。帰国の願いは遂に叶わなかった。
山本が、病床で家族に宛て書き残した遺書は、後年、彼を慕う仲間たちによって日本の家族に届けられる。
ラーゲリでは、遺書といえども日本語の書物は没収される恐れがあった。そのため、山本の仲間たちは手分けして、日々の重労働の合間に、それぞれが遺書を完全に記憶した。
そして、山本の死から2年後の1956年に日ソ共同宣言が発効され、遂にシベリア抑留者の完全帰国が実現。
翌1957年以降、遺書を暗記した者たちによって、それぞれの記憶から呼び起された遺書が、山本の家族に届けられた…。
(2) 蜂谷彌三郎
映画から離れますが、2人目は、蜂谷彌三郎(はちややさぶろう)の話です。彼もまたシベリアに抑留された実在した人物です。
蜂谷は、滋賀県草津市出身で、戦前は1941年に日本人と結婚して朝鮮半島に移住。陸軍の軍属として勤務し、女児にも恵まれた。
戦争が終わると、家族と住んでいた平壌近郊にソ連軍が雪崩れ込んできた。蜂谷は、あっという間に身動きが取れなくなり、平壌近郊で暮らしを続けながら帰国のタイミングを見計らっていた。
翌1946年の夏、突如、ソ連軍から身に覚えのないスパイ容疑をかけられて蜂谷は拘留されてしまう。約半年間の取り調べの後、一方的に懲役10年の刑を下され、シベリア送りになってしまった。
蜂谷は、ハバロフスク経由、ウルガルのラーゲリに収容された。その後、複数のラーゲリを転々とし、1953年になって、ようやくマガダンにおいてラーゲリから解放された。
蜂谷は解放されたものの、依然としてソ連当局から帰国は認められなかった。そして、生きていくために、止む無くソ連国籍を取得するという苦渋の選択をしたのであった。
その頃、蜂谷はロシア人女性クラウディア・レオニードヴナと運命的な出会いをする。幼少期に乞食に売り渡され、無実の罪で10年の刑に服すなど、彼女もまた過酷で不遇の人生を歩んでいた。
互いの境遇が似ていたこともあり、2人は1962年からアムール州のプログレス村で同居を始め、約37年もの間、ソ連/ロシアで共に暮らした。この間、クライディアが秘密警察から蜂谷の身を守り続けたという。
時代は下って1991年、ソ連が崩壊したことで蜂谷はようやく日本との通信が自由に行えるようになる。そして1996年、手紙で妻子の安否が確認され、ロシアに来た娘と再会を果たすことができた。
翌1997年、蜂谷は51年ぶりに妻子がいる日本に帰国。クラウディアは、長年連れ添った蜂谷を引き留めることもできたはずだが、最後まで蜂谷の帰国のために助力した。
蜂谷の帰国荷物の中には、「他人の悲しみの上に私だけの幸福を築き上げることは、私にはどうしてもできません」と書いた、今生の別れとも受け取れる気丈で気高いメッセージが添えられていたという…。
他国を踏みにじる侵略、人さらい、汚名・濡れ衣、洗脳、強制労働、虐殺…。昔も今も、変わらずこのような蛮行を繰り返している某国には、何の尊敬の念も湧いてこないのが正直なところです。
しかし、私たちはつい「国」で一括りに評価しがちなのですが、「どの国にも、必ず邪悪な連中も居れば善良な方々も居る」というのが正しい物の見方であることを、ロシア人女性クラウディアさんの深い愛情が教えてくれていると思います。
(3) 軍医だった私の祖父
3人目は私の祖父の話です。祖父は軍医として第2次世界大戦に従軍し、終戦後は同じくシベリアに抑留された人でした。
1935年、27歳の若さで済生会熊本診療所の初代所長に就任。
結婚後、私の母を含む子供たちに恵まれたが、大戦後期に軍に召集され、家族のもとに帰ったのは、およそ5年後のことであった。
母いわく、祖父が帰国してしばらくは「お互いに、とても不慣れな感じがした」とのこと。それは1940年代後半のことで、祖父は恐らく3年くらいはシベリアに抑留されていたようである。
帰国後は、馬見原病院の院長を経て、1953年に熊本市内に病院を構えた。しかし、1年も経たないうちに白川大水害で新居は床上浸水に見舞われてしまった。
その後、祖父は私が小学生の頃に肝臓がんで亡くなった。病床で、青白く膨れ上がった祖父の手を握りしめた記憶が蘇る。
生前は何度も祖父宅を訪れていたが、祖父とは、ほとんど祖母や母を介して会話していたので、実際の人物像については多くの謎が残ったままだ。
*** 以下、祖父と病院に関する私の記憶 ***
皆から「おじいちゃま」と呼ばれていた
祖父の病院は、大きなビルに囲まれ
一日中、日の当たらない
薄暗い自宅を兼ねた一軒家だった
その病院は飲み屋街のど真ん中にあり
使われなくなった手術室とか暗室とか
何故か「周恩来」と握手している写真とか
1953年の水害で黒ずんだ床壁と相まって
ミステリアスな雰囲気が
たっぷり漂っていた
おまけに隣はストリップ劇場
祖父の病院を訪れるたびに
呼び込みのおじさんから
「ぼっちゃん、おかえり」と言われた
患者は酔っ払いやら
喧嘩っ早い連中やら
面倒な輩も多かったようで
時には、軟弱ぶりが丸出しだった
若き歌謡スターも来院した
医者馬鹿で、酒豪で、しつけに厳しく
箸の持ち方がおかしいと指導された
ただ、医者としての腕は確かで
右手の大イボを切除してくれて
足裏を大怪我した時も治療してくれた
腹痛の時は決まって「ヒマシ油」なる
クソまずい油をたっぷり飲まされたが
翌日にはすっかり良くなっていた
飲み薬を包むのを手伝わされて
その所作をみた祖父は
私の中の几帳面さという才覚を
見出してくれた…
1991年頃、海部俊樹・総理大臣(当時)からシベリア抑留を慰労する書状が届いたとき、「本人が死んでから貰ってもねえ」と嘆いていた祖母の面影が思い出される。
これ以外、祖父とシベリア抑留に関することは殆んど分からないままですが、多くが語られなくても、戦前・戦中・戦後と、一貫して医者としての道を追求し続けたその生きざまから、何を信念として生きていたかが垣間見えるような気がします。それは…
戦争、シベリア抑留、水害・・・
相次ぐ不遇を嘆いている暇があれば
己が信じた道を歩み続けるということ
およそ10人に1人が亡くなる過酷な状況の中、よくぞ生きて帰って下さった。貴方が生きる希望を失わずに生きて帰ってくれたから、今の私がここにあります。本当に、ありがとう。
私は、あれから色々なことを学び、少しばかりは成長しました。今なら、ほんの僅かだけど、あなたの心の内が分かるような気がします。
おわりに
以上、3人の抑留者をご紹介しましたが、この時代の人の生きざまに共通していることは、どんな苦境に陥ろうとも希望を失わずに前向きに生き抜く強い意志や粘り強さにあると思います。
自身を顧みれば、日々、何と些細で贅沢な悩みにとらわれていることか。
苦境の意味は、後々になって分かることが多いと思います。だから、日々の苦労というものをどう受け止め、どのような生き方を選択するかによって、その人の真価が決まっていくのかもしれません。
最後に、山本幡男が家族に宛てた遺書で、最も感銘を受けた一文をご紹介して、本稿を締めくくりたいと思います。
『どんなに辛い日があらうとも・・・どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである・・・この言葉を忘れてはならぬぞ』
是非、劇場でご覧ください🍀