牧野富太郎 ~ 夢の向こうに描いたもの
ちょっと前の話ですが、この夏は高知に行ってきました。
その時に乗った飛行機がこちら。JALのATR42-600という機体なのですが、なかなか快適でした。
ただ、座席が一番前ということだったので、「CAさんとご対面のシートかな?」と思いきや、まさかここに座らされるとは…
離陸時は前のめりになるわ、乗客の視線は突き刺さるわで、なかなか面白い体験でした…😅
それはさておき、
高知では牧野植物園に行ってきました。
この植物園は、高知出身の植物学者・牧野富太郎の業績を記念して、1958年に開設されたものです。
富太郎をモデルとしたNHK連続テレビ小説「らんまん」は記憶に新しいと思います。
牧野富太郎とは?
幼少期から植物に興味を持ち、ほぼ独学で植物の研究に打ち込み、遅れていた日本の植物分類学を飛躍的に発展させた「日本の植物学の父」とされている人物です。
「世の中に、雑草という草はない」という名言を残したことでも知られています。
生い立ち
富太郎は、江戸末期の1862年に土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で、雑貨業と酒造業を営む裕福な家に生まれました。
幼少期に両親が相次いで亡くなり、その後、祖父の後妻である血の繋がらない祖母に育てられたそうです。
1872年、10歳から寺子屋に通い、11歳になると漢学者の伊藤蘭林に入門し、習字・算術・四書五経などを学びました。
その後、伊藤の勧めで土佐藩の郷校である名教館に進みます。
ここで富太郎が学んだことは、和漢学や英語に蘭語、加えて、福沢諭吉の著書などを通じた西洋流の地理、天文、物理など多岐にわたり、その後、植物学者になっていく基礎が作られました。
1874年、明治政府が新たな教育制度として導入した小学校に進学します。
しかし、授業内容が簡単すぎて次第に嫌気がさすようになり、小学校を中退して植物について独学で学ぶようになりました。
植物学への覚醒
元々、富太郎は酒屋のあと取りで、学問で身を立てることは考えていなかった富太郎は、その酒屋の経営を祖母に任せ、植物の採集や写生などのフィールドワークにも没頭していきます。
1880年、17歳になると高知師範学校の教師で植物学にも詳しかった永沼小一郎と出会い、毎日、通い詰めて遅くまで植物について教えを請い、議論を交わしたそうです。
遅れていた日本の「植物分類学」
植物分類学とは、花や実や種の種類で植物をグループ分けする西洋の学問で、日本には、未だ学名がつけられていない植物が数多く存在していました。
永沼の教えで、そのことを知ったとき、日本中の植物をひとつの書物にまとめ上げること、「それは自分にしかできない仕事だ」と確信するようになりました。
初めての上京
植物の調査が進むにつれ、富太郎はもっと植物関係の書物や、標本を細部まで見る事ができる顕微鏡が欲しいと思うようになります。
そして1881年、19歳の頃、第2回内国博覧会のときに、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京します。
東京では博物局を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学し、土佐に帰って植物について研究する決意を益々、強くしていったのです。
帰郷した富太郎は、2歳年下の従妹で許嫁だった猶(なお)と祝言を挙げ、牧野猶は本家岸屋の若女将となりました。
再び上京、東京大学植物学教室へ
1884年、富太郎は本格的な植物学を志し、再び上京します。そこで東京大学植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、夢を語ります。
「先ずは土佐の植物目録を作り、ゆくゆくは日本中の植物を調べ上げ、日本独自の植物目録を作りたい」
矢田部もこの夢に共感し、同教室への出入りと、文献・資料などの使用を許可しました。
そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシア帝国のカール・ヨハン・マキシモヴィッチに標本と図を送っています(後日、マキシモヴィッチから、富太郎の天性の描画力を絶賛する返事が届いたという)。
植物学誌の創刊
1887年、富太郎は世界に日本の植物を発信できるような雑誌が必要と考え、同教室の仲間と共同で「植物学雑誌」を創刊。
また、植物図の印刷具合へのこだわりもあって、石板印刷工場に自ら出向いてその技術を学びました。
スエとの出会い
富太郎は佐川の実家に本妻の牧野猶がいましたが、富太郎は、1887年末に菓子屋の看板娘、小澤壽衛(以下「スエ」)に一目惚れし、親の承諾を得ないまま下谷区根岸の御隠殿跡の離れ家で一緒に暮らしはじめました。
実家の経営が傾く
しかし、富太郎には常に資金繰りの問題が付きまといます。
富太郎は、東京と高知を行き来しながら植物学者の地位を確立していくのですが、その研究費は亡き祖母に代わって猶が工面し、富太郎の求めるままに東京に送金したため、実家岸屋の経営は瞬くうちに傾いていったのです。
日本初の植物図鑑を刊行
それでも、翌1888年には、かねてから構想していた「日本植物志図篇」の刊行を自費で始めました。
富太郎は、植物図の精密さのみならず、文章の正確さにも厳しく、修正箇所には赤い文字がびっしりと書き綴られています。
富太郎の、植物に対する並々ならぬ情熱が伝わってくるようです。
これは当時の日本には存在しなかった植物図鑑のはしりであり、マキシモヴィッチからも高く評価されました。
初めて植物に学名をつける
1889年、27歳で新種の植物を発見。日本人として初めてその植物に学名をつけます。その名は「ヤマトグサ」。先述の「植物学雑誌」で発表しました。
また、翌1890年には、江戸川のほとりで見慣れない水草を見つけます。
調べてみたところ、当時はヨーローッパ、オーストラリア、インドでしか見つかっていなかった「ムジナモ」と分かり、「ムジナモ」が日本にも分布することを報告。
このことがきっかけで、富太郎の名が世界的に知れわたるようになりました。
矢田部教授との確執
しかし、この年、突如、矢田部教授から植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまいます。
失意の牧野は、日本の植物標本とともにロシアに亡命して、マキシモヴィッチの下で研究を続けようと企てましたが、翌1891年にマキシモヴィッチが急死したことにより、実現しませんでした。
その後、友人の誘いで農科大学で研究を続けることができたのですが、この年、実家の岸屋がついに破綻し、家財を精算するために帰郷します。
このとき、富太郎は猶と番頭を結婚させて、店の後始末を託しました。
大学に復職
1893年、矢田部の後任として東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村任三教授に呼び戻され、富太郎はその助手となりました。
助手の月給で一家を養っていましたが、それでも、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていました。
岩崎弥之助に救われる
この借金は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の弟で、同じ高知の出身でもあり、富太郎の信念に多くの共感を示していた弥之助が肩代わりしました。
1900年から、新たに大学が出版する「大日本植物志」の編纂に情熱を注ぎます。
今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行されました。
しかし、これも松村の妨害により、4巻で中断してしまったのです。
希少植物の発見
そんな中でも、富太郎は、希少植物の発見・命名にも寄与しています。
例えば、日本でも九州や四国、沖縄など温暖な地域に野生する小さな植物で、緑色の葉を持たないので自ら養分をつくることができ、他の植物に寄生して養分を得ている珍しい植物「ヤッコソウ」。
1906年、姿かたちが袖を広げた「ヤッコさん」(江戸時代の武家の奉公人)に似ていることから、富太郎がそう命名しました。
繰り返す辞職と復職
1909年、富太郎を庇護し続けてきた学長の箕作佳吉が死去すると、富太郎は次期校長から辞めさせられてしまいます。
とうとう、富太郎は、大事にしてきた標本を売って生活の足しにしようと決意しますが、池長孟の働きで、再び、大学に復職することが許されました。
1916年、富太郎は自分の自由にできる機関誌を求めて、個人で「植物研究雑誌」を創刊しましたが、発刊間隔が空いたり、池長孟からの援助が打ち切られたりするなど、その継続は必ずしも順調ではありませんでした。
そんな中、成蹊学園の創始者である中村春二の支援を得て、雑誌の刊行を継続することができました。
関東大震災で被害を受ける
しかし、1923年の関東大震災で本が燃え、翌年には中村春二が死去。富太郎は、再び行き詰まってしまいますが、1926年に津村重舎(後の津村順天堂)の援助を得て雑誌の復刊にこぎ着けることができました。
1927年、65歳で藤井健次郎らの推薦により、東京帝国大学から理学博士を受けました。
スエに先立たれる
1928年、妻のスエが55歳の若さで死去。富太郎は、最愛の妻への深い感謝の思いを込めて、仙台で見つけた新種の笹に「スエコザサ」と名付けました。
この時、富太郎は66歳になっていたが、富太郎は、その後も採集と研究に没頭しました。
そして、植物図鑑の集大成が完成
1934年から1936年にかけて、富太郎は、過去50年間の集大成として「牧野植物学全集」全7巻を刊行し、大学を辞職した翌年の1940年、「牧野日本植物図鑑」を出版します。
これが自他ともに認める最高傑作とされ、現在でも全国の書店で購入することができます。
空襲で被害を受ける
大戦末期になると、富太郎が住む東京練馬区大泉あたりも空襲に晒されるようになります。
次女・鶴代が再三、田舎に疎開するように勧告しますが、富太郎は植物標本や書物とともに心中する覚悟でした。
そんな中、自宅前に爆弾が落ちて標本の一部が被弾。とうとう、富太郎は山梨に疎開することになったのです。
そして、終戦から2か月。富太郎は、ようやく東京の自宅に戻ることができました。
標本整理に着手
1951年、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、「牧野博士標本保存委員会」が組織されます。文部省から30万円の補助金を得て標本整理が行われました。
1957年、94歳でこの世を去りましたが、富太郎が遺した標本は、現在、東京都立大学の牧野標本館に収蔵されています。
おわりに
富太郎が生まれた1862年は、同じ土佐出身の坂本龍馬が脱藩した年で、まさに幕末の動乱期にありました。
世の中の仕組みや、人々のライフスタイルや考え方が目まぐるしく変わっていく中、「日本中の植物をひとつの書物にまとめ上げる」という富太郎の強い思いだけは常に一貫していたように思います。
富太郎の生涯を振り返るとき、そこには次のような真実が浮かび上がってきます。
① 燃える使命感、初心貫徹
富太郎には、終始一貫、「日本中の植物をひとつの書物にまとめ上げるという、この仕事は自分にしかできない」という使命感のようなものがありました。
植物図鑑を刊行しても満足せず、赤字で細かく修正し、植物図の精細さに加え、印刷具合にもこだわって石板印刷工場に自ら出向いてその技術を学びました。
大学では教授らからたびたび妨害を受け、資金は底を突き、大震災や空襲に遭い、それでもなお、94歳で生涯を閉じるまで、植物の研究に尽力し続けました。
これを「初心貫徹」と言わずして何というのでしょうか。
② 邪心がないこと
富太郎は、生涯、地位や名声には一切関心を示しませんでした。65歳で大学から理学博士の学位を受けたときも、「これで私は、平凡な人間になってしまった」と、むしろ残念がったそうです。
一方、富太郎の活動を妨害した矢田部や松村などの「教授」は、「小卒」の富太郎が有能であることを心底許せなかったのでしょう。
彼らは、一体、何を為すために「教授」という肩書を持ったのでしょうね。
「邪心」に支配されないように、常に「初心」に忠実であることが大切なのだと、改めてそう思いました。
③ あくなき人間愛
そして、富太郎には、何と言っても溢れんばかりの人間愛がありました。満面の笑みが、彼の人柄を物語っています。
最愛の妻・スエが亡くなったとき、深い感謝の思いを込めて、仙台で見つけた新種の笹に「スエコザサ」と名付けたことからも、その事がうかがわれます。
この言葉からも分かるように、富太郎はきっと、植物図鑑の集大成という夢の向こう側に、植物と触れ合う人々の笑顔が溢れる理想郷を思い描いていたに違いありません。
以前、伊能忠敬や出光佐三のことを記事にしましたが、いわゆる「偉人」と呼ばれる方々の根底には、何か同じような人間性が存在するような気がします。
最後までお読み頂き、ありがとうございました🍀
本稿を、親愛なる友人に捧ぐ💐