父が遺したもの
先月末をもって
実家の明け渡しが完了しました
私がこの世に生を受けてから
半世紀以上にわたり
「ふるさと」であり続けた
かけがえのない大切な場所でした
春先に母が亡くなってからも
2〜3週間おきに実家に帰り
両親の遺品整理に追われる
そんな日が続きました
戦後の貧困から立ち上がった
昭和10年代生まれの世代は
とにかく物が捨てられないようで
隙間という隙間には色んなものが
ギッシリと詰め込まれていた
特に、アルバムやプリント写真は
最終的に段ボール5箱分に及んだ
これらは自宅に持ち帰って
一部はデジタル化するなど
そういう意味では
遺品整理は、未だ続いており
この先、まだ半年くらい
かかりそうな勢いです
今回は、その中から見つかった
昔なつかしい写真などを交えながら
私の両親と実家の歴史に
スポットを当てていきたいと思います
そのあと、タイトルにある
「父が遺したもの」について
お話し致します
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父は戦時の世に生まれ
昭和~平成初期にサラリーマンとして
勤め上げた企業戦士だった
あるとき、草野球で突き指をした父は
母の実家だった病院を訪れた
父は、その病院に
可愛い娘(母のこと)がいると思って
付き合ってくれるか、同僚と賭けをした
そして父は、見事、母の心を射止め
二人は付き合うことになった
しかし、当初は
先の大戦で軍医として従軍し
戦後、シベリアに抑留された義父に
ずいぶん反対されたという
それでも二人の交際は続き
洋画をたくさん観て
あっちこっち旅行して
時には湖上のデートで
二人を乗せたボートが転覆し
ずぶ濡れで帰ったこともあった
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やがて結婚した二人は
少ない貯金をはたいて
新興住宅地の一角に家を建てた
その家で、私は、両親と父方の祖父母
叔母、そして私の兄弟という
賑やかな大家族の中で育まれた
色んな思い出がかけめぐる・・・
両親が動物好きだったこともあり
周りにはいつも色んな生き物がいた
小・中学校が近く、縁側は
よく学校帰りの友人の
たまり場になっていた
剣道をサボったことがバレて
母からビンタされたこともあった
父方の祖父は無口な人だったが
物心ついた頃から
よく熊本空港に
飛行機を見に連れて行ってくれた
それが私の将来を運命づけた
当初、父は私が選んだ職業に
戸惑いを隠せなかった
海を志し、空を職場とする
それは、もう熊本で暮らすことはない
ということを意味していた
それでも、私が故郷を離れた後は
私が選んだ仕事にずっと理解を示し
誇りに思い、応援し続けてくれた
南極大陸に向けて出港するときも
東アフリカに赴任するときも
必ず見送りに来てくれたし
帰郷したときは
いつも、温かく出迎えてくれた
長寿だった祖母たちは
とりわけ優しかった
父方の祖母は
私がこの仕事を始めたとき
命の危機に瀕したときに
身代わりになってくれるという
「身代守札」を持たせてくれた
父は、定年までサラリーマンを
勤め上げたあと
来たるべき高齢化社会を見据えて
2001年に、この一軒家を
熊本県に認可された
高齢者向け優良賃貸住宅に建て替え
このマンションに
「息子たち」を意味する名を冠した
1階部分を自宅、兼大家宅にして
20年にわたり
入居者のお世話に尽力した
父も、祖母譲りで信心深く
大変、優しい人柄で
思えば、私は父から叱られた事は
一度も無かった
困難にあっても
決して朗らかさを失わず
誰にでも壁を作らず
常に相手を思い相手を優先した
昭和のサラリーマンらしく
「利他の心」や「一期一会」を
とても大事にしていた
そのことは
遺された大量の写真からも窺われた
父の写真が極端に少ない …
それは
父が常に他者に尽くす側にいた
ことを意味していた
ひとつひとつの写真には
ファインダー越しに
父が見ていたであろう
被写体への優しい思いが
写り込んでいた
その父が、2020年11月に急死
残された家族に
事業の細部を知る者はおらず
当初はかなり混乱した
一時期、この事業を手放す話も出たが
マンションに「息子たち」の名が
冠されている以上
それを蔑ろにする訳にはいかない
結果、引き続き1階の自宅に母が残り
兄弟が遠方から支えることになった
必然的に、気が利いて几帳面な私が
その大半を引き受けることになった
その母も、2023年の後半に
すい臓がんで余命宣告され
闘病生活の末に
今年3月に亡くなった
私は、母が癌と分かったとき
思い悩んだ末に
母に高額治療を受けさせるために
父が遺したこのマンションを
売り払う覚悟を決めた
父の遺産を、今、母のために遣わずして
いつ遣うのか、という思いが勝った
遠方から母を支えつつ
マンションの売却交渉を進めることは
至難の業だったが
何とか売却の目途がつき
得られたお金を
母の治療費に充当することができた
しかし、その甲斐もなく
母は逝ってしまった
売却済みのマンションは
買い主と新たに賃貸契約を結んで
実家を残し続けてきたのだが
やがて、母の死後手続や
マンション売却の事後処理
準確定申告や遺品整理も終わり
この度、誰も居なくなった実家の
賃貸契約も解消することになった
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さて、前置きが長くなったが
「父が遺したもの」について話そう
私は、2020年に
父が亡くなってからというもの
このマンションこそが
父が生きた証だと思っていた
遺された膨大な資料が
父の並々ならぬ情熱を物語っていた
しかし、父が万感の思いを込めて
このマンションに命名したはずの
その「息子たち」は
その思いとは裏腹に
病床の母への対応の違いから
対立が決定的となり
私は父に申し訳ない気持ちで
一杯になった
昔のアルバムや写真を通じて
両親や実家のことに
思いを巡らせていると
等身大の両親の姿が見えてきて
今頃になって
ようやく分かったことがある
「父が遺したもの」
それは、このマンションといった
物理的なものではなく
私自身の中に確かに根付いている
父が大切にしてきた
「生き方」や「考え方」だったのだ
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実家を離れる最後の日
私は、親父が生前に足しげく通った
阿蘇神社を訪れた
2016年に熊本地震が起きたとき
私は福岡空港から
レンタカーで熊本入りした
息子が飛んで来てくれたことに
安堵した様子の二人の顔が
思い出される
一方で、父はずっと大切にしてきた
マンションの一部が被災し
誇りにしてきた熊本城や阿蘇神社が
壊れたことに、心を痛めていた
その阿蘇神社の楼門は
職人たちの匠の技で
こんなに見事に復旧した
父も、この光景を見たかったことだろう
神社の境内で祈りを捧げる
私はこれらの思いを
買ったばかりのお守りに
しかと刻み込んだ
その後、退去点検のため
再び、実家に戻る
がらんとした部屋の中
2001年に
父がマンションに建て替えたとき
これから始まる新しい暮らしに
胸を弾ませながら
希望に満ちた目で
この光景を見ていたことだろう
隣の家との境界にある
独特の形をしたブロック塀は
50年の時を経て
すっかり色あせてしまったが
今もなおそのままだった
このブロック塀だけが
家族の50年史の目撃者
私は、その傍らに落ちていた石をひとつ
そっとポケットに忍ばせ
この家に最後の別れを告げた
「魂の成長」という名の旅路において
これからが本当の独り立ち
耳を澄ませば
何度も何度も聞こえてくる
父からのメッセージ
「さあ、次のステージへ向かえ」
私はいま、更なる魂の成長を
促されているのだ
この両親のもとに生まれ
熊本と、この家が故郷であったことに
心から誇りに思い
本当に幸せでした
私は、大いなる愛情で
育んでもらったことへの
感謝を忘れずに
生きていこうと思います
お父さん …
本当にありがとうございました🍀
次回は、母のことについて
お話しします。