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島津斉彬公と「昇平丸」
鹿児島県民に「鹿児島のヒーローは誰?」と尋ねると、決まって返ってくる答えは西郷隆盛です。
一方で、「確かに西郷は県民のヒーローだけど、西郷を育んだ薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)公が、その原点だ」と答える人も居ます。
今回は、西郷隆盛の原点たる島津斉彬公の人となりと功績、そして彼が手掛けた洋式軍艦についてお話します。
島津斉彬公について
島津斉彬公は、江戸時代後期の島津家28代当主で、薩摩藩11代藩主です。
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(Photo by ISSA)
「三百諸侯(注1) 中、並ぶものなし」といわれた偉材で、名君の誉れ高く、黒船来航以前から富国強兵や殖産興業に着手し、西郷隆盛などの志士を育てました。
(注1) 江戸時代、約三百の大名が居た
鶴丸城を拠点とする
1851年、43歳でようやく薩摩藩主に治まり、鶴丸城(鹿児島城)を拠点としました(ただし、その治世は1858年に死去するまでの僅か7年だった)。
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(Photo by ISSA)
鶴丸城は、1601年に、島津家18代当主・島津家久が築いた天守閣を持たない居城で、背後の山城と麓の居館からなるお城です。
御楼門は、1873 年の火災で焼失しましたが、2020年に日本最大の城門として復元されました。
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(Photo by ISSA)
その城下にある加治屋町あたりで、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎などの多くの偉人が育ちました。
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(Photo by ISSA)
仙厳園を別邸とする
鶴丸城から少し北に上がった海沿いに、島津家の別邸である仙厳園(せんがんえん)があります。1658年、島津家19代当主の島津光久によって造られました。
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(Photo by ISSA)
仙巌園は、西郷隆盛や篤姫も訪れた、日本を代表する大名庭園です。桜島を望む雄大な庭園に加え、歴代藩主が暮らした御殿があります。
御殿は、幕末〜明治期には迎賓館となり、国内外の賓客が訪れました(現在の御殿は、1884年に改築されたもの)。
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(Photo by ISSA)
藩主を超えた器
斉彬公の目は、幕末期の風雲急を告げる国際情勢に早くから開眼し、老中・阿部正弘に幕政改革を進言するなど、藩主に治まる前から藩主を超えた頭角を現していました。
幕末の志士を育んだ
西郷が、度々、藩庁に提出していた農政改革などの建白書が斉彬公の目に留まり、斉彬公は西郷の存在を知ることになります。
黒船来航以来の難局を打開するため、英名君主である一橋慶喜公を次の将軍に仕立てることが急務と考えた斉彬公は、西郷に参勤交代に加わるように命じ、休憩中に西郷を呼びつけて対面。
江戸では、西郷を御庭方として採用し、慶喜公擁立のための密使として西郷を使い育てました。
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その他、多くの藩士からも慕われ、後年、西郷は斉彬公の死に接したとき、後を追って殉死しようとしたほどでした。
篤姫を徳川将軍に輿入れ
一方で、斉彬公は篤姫を養女とし、公家である近衛家(注2) の養女という格式を持たせて徳川家定の正室に嫁がせ、慶喜公擁立への働きかけをより一層、強めていきました。
(注2) 近衛家との仲介にも西郷を使った
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(Photo by ISSA)
余談ですが、篤姫は家定に嫁ぐために江戸へ上る途中、岩国の城下町へ回り道をして錦帯橋にも立ち寄っています。
富国強兵・殖産興業と集成館
斉彬公は、曾祖父の影響もあり、異国文化に触れる機会が多くありました。
そのため、若い頃から外国事情に関心があり、藩主に就任するや、藩内に精錬所、反射炉、大砲、電信機、写真機などを一手に研究開発するための集成館事業を興したのです。
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(Photo by ISSA)
斉彬公により着手された事業の一部は、現在、尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)に展示されています。
中でも、ガラス工芸品は「薩摩の紅ガラス」として珍重され、現在は「薩摩切子」としてその名が知られています。
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(Photo by ISSA)
また、「1841年6月1日、長崎奉行の御用時計師・上野俊之丞が薩摩藩主・島津斉彬公を撮影した」との記録から、後年、日本写真協会が6月1日を「写真の日」に制定されています。
日本初の洋式軍艦を建造
1851年8月、アメリカから琉球に上陸し、薩摩に送られてきたジョン万次郎(中浜万次郎)を保護し、藩士に外国の捕鯨船の構造を聞き取らせ、造船法などを学ばせました。
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(Photo by ISSA)
そして斉彬公は、1853年2月、幕府に対して当時薩摩の庇護下にあった琉球王国の防衛を名目に、琉球大砲船と称して洋式軍艦の建造願いを提出します。
1853年6月許可が降りると、 桜島東部の瀬戸村造船所(現・黒神町)(注3) で起工しました。
(注3) 1914年の桜島大爆発で、この造船所一帯は溶岩に埋まり、桜島と大隅半島が陸続きになった
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(Photo by ISSA)
このとき斉彬公は、なんとオランダの造船書だけを頼りに、独自に船を建造したのだそうです。
その直後の1853年7月、ペリー率いる黒船が来航。幕府は近代海軍を創るために大船建造禁止令を解禁し、浦賀に造船所を設立して、1854年6月に日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を竣工させました。
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(Photo by ISSA)
斉彬公の琉球大砲船も1855年1月に竣工し、鳳凰丸に次いで日本で2番目の洋式軍艦となりました。
この琉球大砲船は、1855年3月に「昇平丸」(注4) と命名され、同月、薩摩から江戸へと回航されました。
(注4) 「鳳凰丸」も「昇平丸」も蒸気船ではなく、3本マストのバーク型帆船だった(ちなみに、同じく斉彬公が手掛け、1855年10月に試運転に成功した「雲行丸」が日本初の蒸気船である)
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(Photo by ISSA)
この年、斉彬公は同じ桜島において姉妹船である「鳳瑞丸」等の4隻を、相次いで完成させています。
初めて日の丸を掲げた船
昇平丸を江戸に回航する際、日本史上初めて「日の丸」が船尾部に掲揚されました。
1854年3月の日米和親条約締結後、幕府は、「日本惣船印」(にほんそうふなじるし)、つまり、 外国船と区別するための全国共通の船舶旗を制定する必要に迫られたからです。
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(Photo by ISSA)
当時の幕臣は「日本国」という意識に乏しく、惣船印には徳川の「中黒」とする意見が大勢を占めていましたが、最終的には、斉彬公が進言した「日の丸」の幟(注5) を採用されました(1854年8月、老中・阿部正弘が布告)。
(注5) 斉彬公は、鶴丸城から見る桜島から昇る太陽を美しく思い、これを船印にすることに決めたといわれている
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(Photo by ISSA)
1859年、幕府は日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出し、日の丸が事実上の「国旗」としての地位を確立することとなりました。
昇平丸のその後
江戸へ回航された「昇平丸」は、1855年5月に品海に到着。斉彬公自らが乗船し大砲発射試験を行っています(16門の砲門を装備)。
また、同年7月には一橋慶喜公が乗船し射撃運転を行っていました。
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(Photo by ISSA)
1855年9月に幕府へ献上され、その名は「昌平丸」に改められました。
その後、勝海舟が率いる海軍伝習生を乗せて、1855年10月に品海を出帆。同年11月に長崎に入港し、オランダ人による伝習が行われました。
1869年10月、大蔵省所管となっていたの「昌平丸」は、「咸臨丸」と共に北海道開拓使の輸送船として使われました。
しかし、1870年3月、松前沖で嵐に遭遇し、高波により座礁して失われてしまいました。
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(Photo by ISSA)
斉彬公の最後
阿部の死後、1858年に大老に就いた彦根藩主・井伊直弼と将軍継嗣問題(注6) で真っ向から対立しました。
(注6) 将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、斉彬公は次期将軍として一橋慶喜公を推したが、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推していた
直弼は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧(安政の大獄)。その結果、慶福が14代将軍・徳川家茂となり、斉彬公は敗れました。
その後、斉彬公は、1858年8月、鶴丸城下で出兵のための練兵の最中に発病し、死去しました(享年49歳)。
照国神社
城山の麓、鹿児島市の中心地に、島津斉彬公を御祭神とする照国神社(てるくにじんじゃ)があります。
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(Photo by ISSA)
創建時の社殿は西南戦争の時に焼失し、その後、再建されましたが、大戦末期の戦火で再び焼失。
その後、順次、復興建設がなされ、現在の姿になっています。
おわりに ~ 島津斉彬が遺したもの
斉彬公は、無作為に開国や攘夷に走るのではなく、先ずは欧米列強に比肩するくらいに強くなり、その上で開国すべきと考えていました。
そのため、一橋慶喜公を将軍に仕立てるとともに、西郷隆盛などの次世代を担う志士を育て、大砲や洋式軍艦を自前で装備しようと考えたのです。
また、日本惣船印に使われた「日の丸」は、藩という小さな「お国」を超えた「日本国」という意識を芽生えさせるきっかけとなりました。
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(Photo by ISSA)
常に海の向こう側を見つめ、軍艦を通じて日本人の国際化を促した斉彬公。
その、ひとつひとつの考え方は、現代にも通じるところがあります。
もし、斉彬公という偉人が存在しなかったら、西郷隆盛が志士に育つことも、明治維新が成し遂げられることもなかったかもしれません。
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(Photo by ISSA)
斉彬公をお祀りする照国神社の立地や規模、佇まいからしても、確かに斉彬公は鹿児島県民に敬愛される名君であることがうかがわれました。
島津斉彬公が西郷隆盛を育み、
西郷隆盛の哲学に学んだ稲盛和夫氏
その稲盛さんの
思想的影響を受けた私が
ここに居る
思索の旅はまだまだ続きそうです✨
鶴丸城・黎明館のカフェで、そんな事を考えながら、午後のティータイムを過ごしました🍀
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《CHIN JUKAN POTTERY》
(Photo by ISSA)