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失われた「ふつう」を求めて
変なものや変なことであっても「いい変」ならそれは楽しいことだし、それを言っても言われてもいいと思う。指摘してはいけないのは「悪い変」ではないだろうか。
今見るとふつう
例えばクロックスは、昔は変な履き物だったが今見るとふつうだ。電車に乗ったときに乗客の全員がスマホを見ているなんてことも、最初はすごく変なことのように感じたが、今ではむしろスマホ以外のことで時間を潰している人の方が珍しい。
そういうのは「いい変」、ポジティブな変だと思う。もしくは、ポジティブでもネガティブでもない「どっちでもいい変なもの」だと思う。初めてiPhone10を見たときも「デカすぎる」と思ったけど、今見ると割とアリかもしれない。
悪い変
私が「悪い変」というのはどういうものかというと、明らかにまずいことが起こっているのにみんなで見てみぬふりをする状況とかだ。電車でいうなら、困っている人がいるのにみんなが無視する状況。あとはサービス残業が当たり前になっている職場とか。
個人レベルでいうと、怪しさや不気味さが出ている人に対して「悪い変」を感じる。詐欺師っぽかったり、暴力や威嚇を感じさせる人だったり。
菅総理のおかげで月々のケータイ代が去年あたりから安くなった。やっぱり以前はおかしかったのだ。明らかに高すぎた。
他人の印象
だからマイケルジャクソンは変な人だけど「いい変」だと思う。私はそういう意味でりゅうちぇるさんも好きだ。滝沢カレンさんも好きだ。彼女の言葉はちょっと変だが、「いい変」だから聞いてて楽しい。しずるのkazmaさんも変だと思うが、私はあの変が大好きだ。
反対に、怪しい方法で富を得ようとしたり異性と繋がろうとしている人を見ると「悪い変」を感じてしまう。いくら正しい文法で美しいことを言われても、そこに嫌な印象を抱いてしまうことがある。その人の見た目が美しくても、だ。
例に挙げて申し訳ないが、ガーシーさんは私に「悪い変」を感じさせる。マイケルジャクソンだって、彼が亡くなる5〜10年前くらいまでは、「悪い変」としてテレビでもいじられまくっていた。私はその当時、テレビでマイケルジャクソンを悪い風にいじる芸人さんを見て辛い気持ちになった。大ファンだったからだ。
境界戦機
ただ、この「いい変」と「悪い変」をはっきりと分ける境界線は無い。それが大きな問題だ。さっき上の方に書いた「今見るとふつう」という感覚のターニングポイントも特にない。
強いていうなら平和と健康だろうか。やっぱり平和を乱すようなものや行動に対して「それも自分らしさだから」「多様性を認めなさい」と言われてしまうと、すごく悩んでしまう。健康を害する趣味にハマりすぎるのも、よくないと思ってしまう。
そういう理由で暴力的なものや不健康すぎる行為を「多様性」の中に含めたくない。クロックスは別に暴力的な履き物ではないけど…
でも、なんとなく暴力の匂いが滲み出ているようなファッションの人にはあまり近づきたくないというのが本音だ。それは、そういうファッションの人を差別することになるのだろうか?
あと、さっき書いたような不正な行動を「多様性」のために容認することもできない。私はむしろ「おかしくないですか?」と声に出してしまうタイプだ。
私のふつう、あなたのふつう
私は週末にビールやワインを飲む。しかし、もし友人がストロングチューハイを毎日1リットルくらい飲んでいたら諌(いさ)めると思う。
ロックやヒップホップが好きだから、上下揃いのadidasのジャージをかっこいいと思う。でも顔にタトゥーを入れてる人には話しかけられない。
「ふつうなんて無い」と言いたいところだが、やっぱりいい意味での「ふつう」はどこかにあると思うのだ。
だからこそ、私は私のことを変だという人の口を封じたくない。