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序説、自我主義とルール主義。リベラルと保守を超えて
巧く言えないけど、このご時世人々の意見に仮に対立軸があるとしたら、それはリベラルと保守じゃなくて、「自我主義」と「ルール主義」とでも呼んだ方がいいものなんじゃないかとなんとなく思う。ちょっといいかえれば、ご都合主義と冷笑主義みたいな感じ。
例えば、一部フェミニズム運動が批判される理由の多くは、論者による、反転可能性を無視したその主張の一貫性の無さなどであって、フェミニズム自体が否定されたものでは無かった。つまり、男女が可能な限り平等で両性にとって生き易い社会であるべきという意味でのフェミニズムは、もはや、リベラルや保守という従来の立場を問わず共有されているのではないかと思う。
一部フェミニズム運動や運動家が批判されたのは、そのご都合主義が理由であってフェミニズム自体ではないとすると、論点はフェミニズム、つまり女性を社会的にどう位置付けるかに関する議論ではなく、ご都合主義を許容するか否かが主戦場になってくる。
ご都合主義と言ってもその発端の多くは目の前の不条理に関する素朴な憤りであり、人々の潜在的な問題意識に触れれば、瞬く間に多くの共感を得ることができる。しかも、個人の自我感情に基づくものだけに根強い力を持つ。このように個人の自我感情が発端となりそこから共感が広まる主張を、仮に「自我主義」とても呼んでおこうか。
一方、ご都合主義を批判する立場を「ルール主義」と呼ぶならば、それは熱い強い自我主義に対し反転可能性や他の類似事例との比較検討を促すことで、冷や水を浴びせかける。その意味では冷笑主義とも言えるだろう。しかし自我主義で訴えられた問題意識を社会の中で制度化し、人々の考え方や暮らしを実際に変えていくには、個人の感情を超えた普遍化もやはり必要である。
自我主義やルール主義は、問題を解決していく際、排他的ではなく、むしろ相互に依存せざるを得ない状況にあると思う。ある不条理につき、自我主義が無ければそもそも問題として認知されず、不条理は残されたままになるだろう。しかしルール主義を取り入れなければ、自我主義による共感は一過性の感情の爆発で終わり、制度として定着することはありえない。
リベラルや保守のように、従来どおり、価値観そのものの意見対立もまだまだ存在すると思う。しかし、現代の対立軸の多くは、ある程度価値観を共有した上で、その実現に向けた方法論に関する対立なのではないかと最近思っている。まあ、もう少し色々見たり読んだり考えたりしなければならないんだろうけど。
とりあえずそんな、自我主義とルール主義に関する序説なんである。
(2021.1.16)
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