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感想『人間をお休みしてヤギになってみた結果』
『人間をお休みしてヤギになってみた結果』(新潮文庫)読了。面白かった。
デザインスクールを卒業した実家暮らし30代男性無職が、人間の暮らしに嫌気がさして、文字通りヤギの暮らしにチャレンジする話。はなはだふざけていて荒唐無稽なんである。ただ、そのプロセスが妙にきちんとしていて、興味深いのは否めない。
きちんと研究の助成金を取ったことを皮切りに、シャーマンに動物の意識について聞き、ヤギの生態について見学して専門家から習い、ヤギと人間の歩行プロセスや骨格の違いについて研究者と議論して自分用のヤギギプスを作り、ヤギの筋肉や骨や内臓の構造やらを知るためにヤギの遺体解剖に立ち会い、ヤギと同じように草を食べるためにセルロースを分解するヤギの消化プロセスの人工的な再現に四苦八苦する。
ここまで準備して、ようやくスイスのヤギ農家でヤギの暮らしを体験することになる。人間と比べて前足に体重をかけるて四足歩行するためのヤギギプスを装着し、草を発酵させるための人工胃袋をたずさえ、ヤギの群れに入る。当然、ヤギに比べてうまく歩いたり走ったりはできないし、草は口の中で咀嚼して人工胃に吐き戻すのみ。
一日ヤギ暮らしを終えると、人工胃で発酵させた草に圧力をかけてセルロースを分解し、食ってみる。当然人間にとって美味いものではない(その後ステイ先でヤギのシチューをふるまわれる。これは美味そうだ)。傍から見ると全然楽しそうに見えない。もはやある意味苦行だ。
でも、このヤギ暮らしレポートのそこはかとない魅力には抗いがたい。そのわけは、たぶん、人間の知性や生活の相対化の欲求を、知らず知らずに僕らが抱いているからなのかもしれない。
ヤギはただヤギとして暮らしているだけである。にもかかわらず、人間としてその暮らしを体感し、理解するには、動物行動学、生態学、解剖学、医学、発酵学、そして牧畜やシャーマニズムとかの諸々の知識への理解がいるらしい。人間社会では、それぞれの専門知識が進歩の名の下に日々専門分化しているけど、ヤギはヤギとして暮らし続けている。
専門分化を続ける人間の知識や生活に比べ、その総合として常に存在し続ける現実は、ある意味相反するのかもしれない。しかし、人間も現実の存在である以上、専門分化を続ける日常の視点から離れ、総合へのあこがれに似た感情があるのではないかと思う。
そういう、ある意味人間に共通するのではないかという人々の感情に、きっと、ヤギ暮らし体験の試みは非常に刺さってしまうんである。
人間は人間から逃れることはできない。でも、人間と異なる視点を置くことで、知識の細分化の先で息詰まっている、本来は現実の一部であるはずの人間に対し、新たに総合的な意味が付け加わることもあるだろう。人間を相対化する試みは、ある意味、人間が人間に回帰する試みなのかもしれない。
この本の内容は、その後、あの名高い(笑)イグノーベル賞を受賞したとのこと。ヤギになってみたいと思う人は存外多いかもしれず、そして自分もその一人かもしれないと、読み終えた後ぼんやりと思ってしまった。
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