優等生を”降りた”私より。
私は昔、優等生だった。そしてその立場から“降りた”。
その事実が形をもってはっきりあらわれてきたのは、つい最近のことだった。
大学の教職課程の、学校におけるカウンセリングを扱う授業を受けていた私は、授業で行う自己分析を通して自分の性格の成り立ちや家族との関係に悶々としていた。そして、思うところがあり、その担当の先生の部屋をたずねた。
「あなたはねえ、自分から優等生のレールを降りたんですよ」
まあなんかこんな感じだったと思う。(一字一句覚えているわけではないが)私がひとしきり自分の発達障害のことや、今までに家族間で起こったことを話していると先生はそのようなことを言った。
私が優等生のルートを「こんなのは嫌だ」と拒否し、今の音楽をやるような、自分の「過集中、分析力」といった特性に合う自分らしくあれるような場所に来た、と。
私はそれを聞いてひどく腑に落ちたのを覚えている。そうか、そういうことだったのか、と。今思えば発達障害のあらわれと反抗期が同時に起こって「こんなのは本当のあなたじゃない」と家族に言われたり、「いつかもとに戻るから」なんて見当違いなことを言われてきたのはそういうことだったのか、と。
私は、中学生の2年あたりまで、いわゆる「優等生」というやつだった。勉強はもちろんでき、一年間席次一番を取り続けたこともあった。親に反抗することもそこまでなかった。
だが、それは中学3年のころから一変した。夜遅くまで起き、学校には遅刻寸前で通うようになり(これは高校になると「毎日遅刻」に進化した)、意図的に勉強をさぼるようになった。親にも口答えなどをすることが増えた。
家族はさぞ驚いたことだろう。今までそんなに問題を起こすこともなかったのにいきなりどうしたのか、と。
ただ私から言わせてもらえば、「何寝ぼけたこと言ってんだ」という話である。こちとら中学2年の席次一番時代には逆にその成績を揶揄されていじめられ、学校の先生に「なんでそんなに勉強できるんだ(熱心になれるんだ)」と言われたら「だって周りがやれって雰囲気出すからです」なんて言ってたんだぞ。
要するに、「全部つながってんだよ」ということである。当時やることがそんなになかったために集中して勉強していた(せざるを得なかった)ら「ガリ勉」といじめられ、別にそんなキャラになりたいわけでもないのに優等生扱いされたらたまったもんじゃないのである。私は小学校の時から「ガリ勉」じゃなくて「音楽できるキャラ」でありたかったんだよ。
とまあ中学2年の時までにためまくったストレスや不満が、このような結果(反抗期)になったのだろうと私は思っている。それに発達障害の特性のあらわれも被ったのだろう。
そんなこんなしながらも高校まではスムーズに合格した。ほとんど中1・2の成績のおかげで推薦で地元の進学校に合格したのである。(それでも中3の評定は4.6ぐらいはあった)
ただ高校になるとほとんど勉強はしなくなった。課題出すくらいはしていたが。
この頃には前述のように遅刻がひどくなり部活でも迷惑をかけた(大変申し訳ありませんでした)。
そもそもなんで遅刻してたんだ?という話なんですが、発達障害(自閉症スペクトラム)の二次障害の強迫性障害の症状のせいで、朝の準備ができなかった、というのが理由です。
強迫性障害は、簡単に言うと「特定の癖などの行動をずっと繰り返してやめられなくなる」という感じの症状が出ます。(気になった方はより詳しく調べてみましょう)よく言われるのが、「手洗いがやめられない」みたいなやつ。これ癖を止めるのって相当苦しいんですよ。「止めたらどうなるんだろう」ってすごく不安の症状も出てくるので結果的に治療には薬が必要になります(私は今も飲んでいます)。
私の場合は、夜お風呂になかなか入れないところからそれがスタートし、入ったら入ったで「長風呂してしまう」とか「決まった順番で洗う」などの癖がやめられず、場合によってはそれが朝方ごろまでかかり、朝の時間を食いまくって全然準備ができなかった。
長くなるので高校で起こった問題に関してはこのくらいにしておくが、お世辞にも私は「優等生」とは言えない状態になっていた。高校2年のころからは治療のために精神科に通いはじめた。さすがにこの頃には親は「優等生」である私の姿をある程度諦めたと思う。
ただそのような状態になった私にも「このままじゃおれんわ」という気持ちはあり、どうやってこの状況を打開するかずっと考えていた。勉強はもうできないし、だった自分が少なくとも自信は持てる音楽でいっちょやってやろうかと。その当時はずっと習っていたピアノもやめさせられ、それをどこかで使う機会などもほぼなく、気持ちがくすぶっていたのもあったと思う。
そこで音大受験を決意し奮い立ち、どうにか芸大生である今に至った。ただこの受験時期にもオソロシイ親のエピソードとかあったんですよね…(父親が「強迫性障害を治す」という誓約書を私に書かせたりしました。冒頭の先生は「これは完全に支配ですね」って言ってた。そんなんで治るなら強迫性障害なってないって!)
今は幸い音楽ができるということでモチベーションを保ちながら大学に行けている。
しかし今度は次の問題が出てきた。冒頭で出てきた教職課程を続けるか否かの問題である。(話出てくるのおっそ!)
そもそもなぜ教職課程を取っていたかというと、免許を取ることが大学進学への条件のひとつだったからである。(「免許」とか「資格」というものに未練のある母親の影響も大きい。母親との話も今度書きたいです)免許をとるというポーズだけでもうまく見せておかないと私は家で立ち回っていけなかった。だが、教職課程の授業を受ける中で「自分には向いていないな」と思ったり、芸大で出会ったいろんな道に生きる周りの人たちを見て「私は教員になるという選択でいいんだろうか?」と思ったり、また「先生になって毎日忙しく、自分が音楽をやる暇もなく生きていていいものだろうか?」と思ったり、たくさんのことを考えた。
最終的に決定打になったのは、コロナ禍における大学生活だった。一つ一つの理由はたわいもないものだった。課題が毎週になって出し続けていかれないとか、専攻の試演会が中止になったとか。一つ一つの理由は小さくても、たぶん疲れてはきていたんだと思う。
ただその選択をする際に、ここまでの大学生活でいろんなものを見せてもらってきた私には、周りの家族よりも少し違うものの見方で選択ができるようになっていた。だからこの決断に踏み切れた。
結果的に、私は教職課程、ならびに教員免許を取るのを辞めた。
周りからはいろんな反応があった。母は職場の中学校(母は教員ではない)の先生たちの様子を見て「あなたでもできるかもよ」とか後出しで言ってきたりはした。
ただ、冒頭で話を聞いてくれた大学の先生は、「その選択でいいと思います」と後押しをしてくれた。「君には今の専攻とかがそれより向いてると思う」と。
今私は、自分の心と体を休めつつ、自分のやりたいことのために準備中である。
私はまた親の求める「優等生」を、教職課程を止めることによって降りた。
私は今まで親の求める要求を別におかしくないことと思って受け入れてきた。確かに悪い要求をしてきてるわけではないと思う。彼らなりに子どもを思ってのことであっただろうから。ただ、私はそれができなくなった。正しくは、私はそれをできるだけの特性を持ち合わせていなかったのだと思う。
親には申し訳ないが、私はあなたたちの理想とするような人生を歩まないつもりである。
ごめんなさい、と一応謝っておく。しかし、私は大事な選択をするごとに、より生きやすくなるような選択をしている。
だから、どうかもうあなたたちの“高み”に私を引き上げないで。