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父親との記憶と記録

7/27(金) 20:09に、父親が亡くなったという連絡を受けた。
71才でした。

父親の携帯からの電話で、父親ではない声だったので
何かあったのかな?と思ったら、まさかの知らせだった。

幸い、デジタルな世の中なので、
記憶や感情が鮮明なうちに記録として残しておくことにした。
肉親が亡くなり、死後の対応を担うことになると
悲しむ時間すら与えられないほど、
色々な対応(しかも初めてやることばかり)をやらないといけない。
ネットで検索しても知らなかった情報もあるので、
それも踏まえて記載します。

◆7/27(金)

ぼくには兄妹もいなければ、母親はすでに他界している。

警察が第一発見者だったようで、
これからやらないといけないことを聞かされるが、
動揺+初めてのことだらけでなかなか頭に入らない。

ちょうどPCを持ち歩いていたので
一緒にいた人の助けを借りながら
やらないといけないことを1つ1つ進めていく。

警察は遺体を運ぶことが法律で許されていないらしく、
葬儀屋などに依頼しないといけないらしい。

リアルな話をすると、
タクシーのような料金形態になっているため、
なるべく遺体の近くの業者を捕まえないと請求額が高くなる。

幸い24時間対応なのですぐに連絡が取れたが、
ネットで調べて出てきた評判のいいところはキャパ的に無理らしく、
なかなか決まらない。
ただ、こういう業者は横の繋がりも強いらしく、
コスト的にも問題がない業者を紹介してもらえ、
日が変わる前に手配することができた。

遺体を自宅から警察へ搬送し、
検案という、死因の調査を警察にて行う。

専門医が行うらしいが、もしこれで死因がわからなかったり、
不審な外傷等が見つかれば、解剖が必要になるらしい。

時間も時間なので、明日の早朝に検案+報告があるが、
同時に検案が終わったタイミングで警察署から
安置所に遺体を搬送しないといけないらしい。

そのまま葬儀屋を探す。
母親が亡くなった時は、ぼくが高校1年の時だったので
父親が全部やってくれたのもあり、
調べ方すらわからず、難航するかに思えたが
一緒にいた人が冷静に調べてくれたお陰で
良さげな業者を手配することができた。

本当感謝しかない。

そして週末から次週にかけてのアポを全てキャンセルし、
仕事先にも連絡を入れ、一旦休むことにした。

これらの流れは警察が第一発見者だった場合。
もし病院で亡くなった場合は、そのまま死因の確認が行われるので、
警察が第一発見者になった時のほうが面倒くさい。


◆7/28(土)

あまり眠れず、目が覚めたらすぐに本日やることを確認した。
非日常すぎてなかなか頭に入らない。

ほどなくして警察から連絡があり、
持病+飲んでいた薬等もろもろの状況から
くも膜下出血の疑い、という結果が出た。

ちなみにここで判明せず、解剖が必要になった場合、
各都道府県に置かれた専用の場所へ
搬送し、確認が必要になる。
神奈川だと金沢区八景島の施設になるらしいが、
そこへの搬送+解剖費はすべて遺族持ちとなり、
今回の場合だと16万くらいかかっていた計算になる。。。

死後4日間ほど経っていたらしく、
7/23(月)~24(火)に亡くなったとのこと。
実は、父親は7/24(火)~26(木)まで福岡へ一人旅する予定だった。

ぼくはてっきり、福岡旅行で体調を悪くしたことが
原因なのではと思っていたが、まさか福岡へ行けてなかったとは…。

この日は関東に大型の台風が来ると言われていたので
早めに動く必要があり、すぐに父親の家の最寄りの警察署へ。

家の鍵と所持品を受け取り、そのまま父親の家へ。
携帯電話や通帳、印鑑、身分証や財布など、
最低限必要なものだけ持ち出す。

家が散らかっていたこともあるが、
夏に死後4日ほど経過して発見されたのもあり、
臭いが正直キツく、
消臭系のものを近くで買って設置し、一旦帰ることにした。

天気予報だと昼から降るらしいが、まだその気配がない。
父親が見守っていてくれたのだろう。
あまり連絡をお互い取るほうではなかったが、
親一人子一人なので、繋がりは強かったから。

一度自分の自宅へ戻り、荷物を置いた後、
今度は葬儀社へ。

これと同時並行で、昨日手配した遺体搬送業者から
葬儀社への引き継ぎ及び、葬儀社の遺体安置所へ搬送された。

昨日のうちに葬儀のプラン、日程を確定させたので、
これからの流れや見積書の説明をうける。

こちらが想定していた金額の2.5~3倍くらいの費用だった。
なぜこれだけかかるのか聞いてみたところ、驚愕の事実が。

神奈川県の場合、病院以外で亡くなる(警察が初動処置になる)と、
警察が動くことによる費用がすべて遺族負担になるらしい。

検案書という、検案の結果を書いてもらう書類1枚で
20,000円という、笑えない金額だった。

そういうものをすべて計算すると、
全体の費用のうち、6割ほどが警察関連の費用だった。

ちなみに、これが東京だと税金で処理されるので遺族負担はないらしい。
ポイントは死亡が確認された場所らしいので、
神奈川県の川に転落したとして、そのまま流されて
東京都大田区あたりで発見された場合は、
東京都の処理となり、税金で賄われる。

正直、意味がわからなかった。
地方で、税収が苦しいならまだわかる。

神奈川は人口も多く、税金を回せないとは思えなかった。
単に使い道の問題だろう。

少子高齢化で孤独死が増えていく(初動が警察になる)時代に
その高額な費用が残された遺族に請求されるなんて
本当に意味がわからないし、怒りがこみ上げた。

後日、議員と繋がりがある人に聞いたところ、
東京と同じく税金で対応する案が出たそうだが、
受け入れてもらえなかったらしい。
まぁ、このへんは今後の活動に活かしていく。

そんなこんなで、時代錯誤な慣習、法律にも疲弊して
この日は終えた。

◆7/29(日)

午前中のうちに父親の自宅へ。
家の片づけを行った。

父親はミニマリストとは真逆の生き方をしており、
とにかく物が多い。
絶対使わないでしょ、いらないでしょ、というものが大量にあったため、
片付けるだけで重労働だった。

ある程度落ち着いてきたタイミングで、
父親に何かあったんじゃないか、と
警察に連絡してくれた隣人の方と会う。

父親の交友関係は特に知らなかったが、
良い人たちが傍にいてくれたようで本当に良かった。

どうやら、数日前から体調が悪いと言っていたらしく、
翌日から福岡で、取りやめにしたくないから
無理をしていたのだろう。
全部推測でしかないけど、父親らしい。

せめて苦しまずに逝けたなら何よりだけど、
そういうわけでもなさそうだった。

家具や家電も無駄に所持しており、
粗大ごみを考えていたが、
その隣人の友人が引き取ってくれた。

改めて、リアルかつ距離が近いコミュニティの強さに感動した。

葬儀等、必要な情報の共有を行い、一度帰宅。

家の契約を解除したり、
職場への連絡といった
諸々とやらないといけないことがあり、
それらの情報を大量の書類の山から調べないといけなかった。

夕方くらいからひたすらその作業を行い、
この日は終了。

◆7/30(月)

朝から銀行やお役所廻ったり、必要なものを買ったり。
自分事の事務処理なども合わせて。

あとは各所からの連絡を返したり。
疲れが溜まっていたのか、活動は早めに終了。

今の家がもうじき2年で更新の連絡がきたので、
タイミング的にも引っ越しを検討しようかと思い、
物件をひたすらチェック。

◆7/31(火)

ひたすら自宅の断捨離とか掃除。
元々荷物はそんなにないほうだと思っていたが、
ゴミ袋で12袋分ほど処理。

父親のような肉親の死って、価値観にまで影響を与える。
とにかく身軽に生きようと思い、
処分しまくった結果、かなり家がスッキリとした。

それでもミニマリストと比べるとまだまだ物はあるけれども。

◆8/1(水)

昼から父親の葬儀。
予想以上の方に来ていただき、無事に見送ることができた。

自分一人だったらやり遂げられなかった。

父親と同世代の人がいるのもあり、
葬儀の経験があるためか、
サポートしてもらえたのが本当にありがたかった。

何度遺体を見ても、寝てるようにしか見えなかった。
よくよく見ると、寝息をたてていないので
亡くなってるんだけど、よく昼寝をしていた人だったので
ただ寝てるだけで起きてきそうな気がしてならない。

骨になると、少しだけ実感は湧いたが、
やっぱりどこかにいるような気がしてる。

帰宅してひと段落してから、
久しぶりにSNSを開く。

金曜日に父親の死がわかってから、
Facebook、Twitter、メッセンジャーは一切見ていなかったので
少し浦島太郎感覚だった。

8/2(木)からは仕事も再開し、
期限に余裕があるけどやらないといけないことを
少しずつ処理している。

これを書いている8/13(月)には
周りの助けもあって、重いことはほぼ完了できた。

父親のスマホのカメラロールに残っていた写真。初めてディズニーリゾートへ連れていった時のもの。ビッグバンドビートをめちゃ気に入っていた。

◆それ以外に書き留めておきたいこと

正直、よく71才まで生きたなと思った。
糖尿病+不整脈を持っているので、合併症のリスクが非常に高く、
医者からもよく心配されていた。

持病があるにも関わらず、健康にはあまり無関心で、
お菓子も大好きでよく食べていた。

また、ぼくが小学校2年くらいの頃に
バイクで大事故に合い、一生松葉杖が必要だと診断されたにも関わらず、
走るのが不自由なくらいで、自由に歩けていた。

そんなこんなで、身体の中も外も問題を抱えながらも、
仕事が好きで、遊んで暮らそうなんて考えていなかった。

ゲームは好きで、ドラクエ5が特にお気に入りだった。
アニメも一緒によく見たし、
コードギアスやシュタインズゲート、Fate/Zeroなんかは
父親と楽しんだ想い出の作品だ。

高校1年の時に母親が亡くなった時、
ぼくの家は経済的なこと以外では母親のおかげで
回っていたようなものなので、
近所からは、榊原さんのところはもうどうしようもなくなるのでは、
と思われていたそう。

ただ、そこから父親は料理を覚え、すっかり得意なレベルにまでなった。
特にカレーは絶品で、ぼくにも引き継がれ、
「まーくんカレー」として機会があれば振る舞っている。

ぼくの家庭は経済的にとても裕福で、
キャッシュでポンと買ったマンションに住んでいて、
欲しいものは大体買ってもらえていた。

しかし、母親がガンで入院してから、おそらく相当な医療費がかかったのか、
いつの間にか大量の借金を抱え、最終的に自己破産に至った。

そんな中でも、父親はどこかに余裕があるように見せるのがうまく、
高校生の頃のぼくは特に不自由なく、自由にさせてもらった。

高校を辞めると言った時は、少々ぶつかりはしたものの、
それは辞める2週間くらい前に制服を新調したことが多分原因だし、
放任主義でぼくの好きなようにやらせてくれた。

おそらく母親が生きていたら、絶対に高校も辞められなかっただろうし、
今とは全く違う人生になっていたと思う。

母親が亡くなった時
「親孝行、したい時には、親は居ず」
という言葉を痛感したのもあるし、
単純に心配なのもあり、
再度上京して落ち着いたタイミングで
父親を関東に呼んだ。

しばらくぼくの家で生活をしていたが、
天職として介護の仕事を選び、
60才を過ぎているにも関わらず
一から勉強して資格を取り、見事に職についた。

すでに書いたとおり、
父親は身体の中も外も強いほうではないにも関わらず、
ハードな介護の仕事に打ち込んでいた。

本当に天職だったのか、
業界特有の理不尽なことに吠えながらも、
同僚たちの信用を集め、活躍していた。

もうその頃には家も別々になっていたのだが、
とある夜勤の日、
介護施設の利用者が禁止にされている寝タバコをしたことが原因で
施設が大火事となり、
正義感が人一倍強かった父親は利用者を助けようと
施設に入るも大量の煙を吸って倒れてしまう。

結果、救助が早くて命は助かったけれども、
救出が30秒遅れていたら死んでいたかもしれなかったらしく、
ぼくは急遽ICUに呼び出され、
父親の火傷の状況を見てびっくりした。

無事に退院はできたけれど、
身体に残ったダメージもあり、
介護の仕事を続けることが困難となったこと、
運用会社の事業内容の変更等により、
8年ほど頑張り続けた仕事に一区切りを入れた形になった。

そのあとは、今の家に引っ越し、
持ち前のコミュ力と熱い人柄で、
新しい生きがいを作っていたらしい。

ぼくは、父親に食べさせたいと思えるレベルの飲食店を見つけたら、
大抵連れて行っていたし、
せっかく関東にきたのだからと、
スカイツリーやディズニーリゾート等にも連れて行った。

親孝行できる時は、やっていたが、
ただ最近は、サロンにも入った関係で忙しく、
会える機会があったけど会わなかった。

今、亡くなってから思うと、
あの時に会っておけばよかった、と後悔がでてしまう。

そんなの自分の時間の使い方でしょ、
と言われればそれまでなんだけど、
忙しすぎたので、近しいからこそ「後でもいいか」と思ってしまった。
東京に住んでる人は、いつでもスカイツリーに行けるから行かない、というのと同じ理屈。
いつでも会えるから、落ち着いてからでいいか、と考えてしまった。

何事もバランスが大切で、
何かを得ようと無我夢中になることは良いことでもあるけれど、
同時に大切な時間や、ゆとりも無くしているのかもしれない。

そして隣人の友人から聞いた話だが、
福岡時代の友人がガンで入院しており、
連絡もなかなか取れなくなったので、
福岡へ行こうとしたらしい。

上京してすっかり関東が気に入った父親は、
近場の旅行以外に興味を持たなかったのに、
急に福岡に行く、と言い始めたんで
どうしたんだろう?とは思っていたんだけど、
なんとも父親らしい理由だ。

だからこそ、福岡行きをキャンセルしたくなかったんだろう。
体調が悪いと自覚しながらも、
これで病院に行ったり、もしちょっとした入院になれば
福岡行きがなくなってしまう。

事故で脚をやった時も、
身体が強くないのに介護の仕事にチャレンジし始めた時も、
いつも無理をして、それを乗り越えてきた。

だから今回も乗り切れると思ったんだろう。

最期まで人を想い、人生を終えた。

ぼくが理不尽なことに反抗するのは、
間違いなく父の遺伝だと思うんだけど、
父親もそれ故に敵も作る代わりに、味方もいた。

持病や身体の問題がありながらも、
71才まで生きれたのは、やりたいことをずっとやってきたからだと思う。

天職の介護の仕事は辞めざるをえなかったけど、
最期まで人生を楽しんでいたんだな、と
葬儀の時に父親の友人たちの話を聞いて感じた。

父親のスマホのカメラロールにあった最初の写真。こういう風景を気に入ってたなぁ。

ひで、本当におつかれさん。
自分は質素に暮らして、人に尽くしてきたからこそ、
最期にその人望や生き様が改めて知れたよ。

さっちゃんと会った時は、よろしく言っといてくれ。

俺は今日で無事33才になったよ。
必ず良い報告ができるよう、
頑張って楽しい人生を送るから、
ひでも楽しく過ごしていてくれ。

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