戸隠五社巡り 「宝光社」
「火之御子社」の夫婦杉から左に続く神道を宝光社に向かいます。
杉の古木と落葉樹の森に包まれ、宝光社、火之御子社、中社の三社を結ぶ。
道は緩やかな下りが続き、過酷な道ではないけれど雨後などは足元が滑りやすい場所もありサンダルとかは避けた方がいい。
道標も整備され道に迷う心配もなさそうです。
クマ除けの鈴の音とウグイスの鳴き声を聞きながら神道を5分程下ります。
やがて右手に根元に注連縄が巻かれた大きな杉の巨木が現れます。
根元に二つの石碑が見えます。
伏拝(ふしおがみ)
「室町時代の古書に「御正体飛来の処、伏拝と称す」と記しています。
950年頃(天歴年中)の祝部(神主)が、宝光社の御祭神・天表春命を奥社に合祀しました。
1058年(康平元年)天表春命の御正体がこの地に飛来「奥社は女人禁制にして、冬は登拝が困難である。
この地は四季を通して老若男女がお参りできる社を建て我を安置せよ」と申されました。
里の人々は御神意によって宝光社を建立し、御正体をお祀りしたと伝えられている。」
その昔はこの先から女人禁制、奥の院や御神体の戸隠山はここで拝みなさいという事。
今は樹々が生い茂りそれらは拝み見る事は出来ない。
「NHK小鳥の声放送記念碑」
なんで?
この戸隠の森は野鳥の宝庫のようで、NHK長野放送局が1933年(昭和8)に日本で初めて野鳥の鳴き声を全国に中継したそうです。
その場所がここで、それを記念し建てられた碑のようです。
「伏拝所」石標
角がとられた一枚の岩に梵字一字、その下に伏拝所と記されている。
右にも何か彫られているように見えますが風化により定かではありません。
このあたりで見かけた全身白ずくめの「銀龍草」
キノコのようにも見え「ユウレイタケ」と呼ばれることもあるがれっきとした花。
周囲の樹々の根っこに共生し栄養を得る、なので葉緑素をもたないので白一色、ユウレイとは気の毒な話だ。
伏拝から宝光社までは10分程の道のり。
明るい森の中に続く神道はすれ違う参拝客もなく、とても心細い「熊出没注意」の看板がそれに拍車をかける、熊とご対面だけは勘弁願いたいものだ。
そんな不安を抱きながら神道を下ると視線の先に宝光社の神輿庫の姿が見えてくれば一安心。
広い境内に神輿庫、社殿、社務所と建てられている。
神輿庫
中には二基の神輿(しんよ)が保管されています。
右の御神輿は1804年(文化元年)、奥社、九頭龍社、中社、宝光社に配すべく四基製作され、現存する唯一の一基で2015年に修復が施されたもの。
左のものは1991年(平成3)に新たに作られた神輿です。
ガラス張りの神輿庫、内部に置かれた解説と、右の神輿を撮ってみた。
左の神輿も撮っては見たが人の映り込みが激しく掲載は見送ります。
二基安置され、一基は新調とあるけれど、ぱっと見はどちらも綺麗に光り輝いている。
こちらの色鮮やかな神輿が残存する結一の一基、修復技術には驚くばかりだ。
神輿庫から眺める「宝光社」社殿と社務所。
木材の色合いを生かすため、塗りが施されていない素木造りの社殿は、周囲の自然に溶け込み落ち着いた趣があり個人的にとても魅かれる。
戸隠神社は1847年(弘化4)の善光寺地震により大きな被害に見舞われ、宝光社も被災しています。
権現造りの社殿は戸隠五社に中では最古のものといわれ、再建は被災後の1861年(文久元年)とされる。
向拝から軒にかけて見事な宮彫りが施され目が奪われる。
屋根は入母屋造りの妻入りで唐破風向拝を持つ。
木鼻の獅子や象を始め、虹梁や蟇股には龍や麒麟、向拝懸魚の鳳凰など生き生きと描かれています。
外観と調和したシンプルな額ですが、その周辺は見事な彫で溢れている。
彩色され直球ど真ん中で勝負してくるものに対し、外角低め一杯に超スローカーブを投げ込むような味わいのあるものだ。
拝殿内と社殿解説板。
それによれば宮彫りは江戸末期から明治期に活躍した宮彫師の北村喜代松(1830~1906年)の作とされるようですが諸説あるようです。
祭神は天表春命を祀る。
式年大祭は7年に一度行われる戸隠神社最大の式典で、今年(2021年)がその年だったようです。
大祭では、先に見た御神輿で中社に渡り、父神の天八意思兼命と対面し再び戻ってくるのだそうだ。
参拝を終え再び上を仰ぐ。
参拝時には気付かなかった向拝柱の梁に錫杖が彫られ、その錫杖に龍が巻き付いている。
時間をかけ細部を見て行くと他にも気づきがあるやもしれない。
拝殿左の社務所。
社頭へは左の女坂か拝殿正面の男坂を下りていく事になります。
社務所後方には境内社が祀られています。
その前には苔むした手水鉢が置かれ、山から湧き出た清水は絶えることなく鉢に注がれています。境内社に向かってみます。
斜面に祀られた社と石灯籠?
上
燈籠に見えたこれは石の社、〇に金の紋が入る事から金刀比羅神社。
下
奥の社は中に石像が安置されていましたが詳細は不明。
拝殿前に戻り男坂から社頭に向かいます。
男坂から下の眺め。
ここから社頭前の県道36号線までは290段ほどの石段が続きます。
石段中ほどの左側に境内社が祀られています。
石段途中から本殿前へ続く参道がありますが、もう少し降ると鳥居があり、そこからこの本殿に続いています。
本殿左に社名札が掛けられ、二文字記されているようですが、上はなんとなく青と読めるが下が読み取れません。青龍? 詳細不明です。
その鳥居です。
鳥居正面に石の社が三社見えています。
石段を上がると傾斜地を切り開いた社地が広がり、そこには見えていた三社以外にも複数の石の社と石仏が安置されています。
石仏のいくつかに頭部のない物もあり、神仏分離の影響?と勝手に想像してしまう。
先程の不明社へは左側に参道が伸びています。
男坂も間もなく終わり、鮮やかな緑のトンネルの先に狛犬と鳥居が見えてきます。
宝光社の狛犬。
年齢不詳、とても愛嬌のある顔つきです。
手水舎。
柄杓はなく、龍から注がれた清水が鉢を満たす事はない。
男坂上り口から上を仰ぎます。
一本の石段ではなく二カ所の踊り場があり、それ程きついものではありません。
女坂は先に見える燈籠から左に進めば拝殿まで伸びています。
鳥居から見る男坂、真っすぐ続く石段の先に拝殿が見えています。
宝光社鳥居と社標。
「戸隠神社 宝光社
御祭神 天表春命
御由緒並びに御神徳
御鎮座年代古く、第七十代後冷泉天皇の康平元年(1058年)に奥社遷祀奉斎されました。
御祭神は中社御祭神の天八意思兼命の御子神様で技芸、裁縫、縁結、安産、厄除、家内安全などに御神徳があり、婦女子や子供の守り神として御霊験もあらたかで広く萬民に高大なるお恵みを給う大神様です」
上
県道から宝光社社頭の眺め。石段はここから始まります。
下
戸隠神社信仰遺跡の解説。
「戸隠神社は奥社・中社・宝光社の三社からなる。
平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊地として知られていた。
縁起によれば学問行者が修験を始めた年代を嘉祥二年(849)頃として、これが戸隠寺(奥院)の起源とされる。
その後二〇〇余年を経て康平元年(1058)に方向院、寛治元年(1087)に中院が開かれたという。
神仏分離により寺を廃し、奥社・中社・宝光社と名称を改めた。
中世の戸隠山は武田、上杉の甲・越両軍の争乱に巻き込まれ、絶えず危機に陥り三院の信徒らは、一時、大日方氏の領内水内郡小川の筏が峯(現小川村)で約30年の歳月を送り、その後戸隠山に帰った。
修験の山の旧態が保存されている奥社・中社・宝光院及び筏が峯三院跡(奥院跡・中院跡・宝光院跡)が史跡指定となっている。
奥社・中社付近の考古学調査が行われ、講堂跡数々の遺構が明らかにされている」
戸隠神社「宝光社」御朱印
これで戸隠5社の参拝はコンプリート。
さて、ここから中社までどうやって戻るか?
神道を戻るしかあるまい、再び神輿庫の脇から神道を上り中社に戻ります。
火之御子社から先の神道。
熊笹ぼうぼうは少し不気味、それも僅かな距離です。
途中の分岐には行先も表示されているので中社を目指せば大丈夫。
やがて道も舗装になり戸隠道を進めば集落が現れます。
集落を流れる渓流に目をやれば、住民の方が大切に守っている岩魚が悠々と泳ぐ姿も見られます。
写真の撮影時間で見ると宝光社鳥居から神道➡戸隠道を経て、三本杉が聳える中社鳥居までほぼ40分。
森林の中を歩いたり、熊笹の生い茂る道を歩いたこの時間は清々しくもあり、心細かったりの楽しい時間を過ごす事が出来ました。
中社に着いた頃は丁度蕎麦屋の開店時間に間に合いました。
2021/6/24
戸隠神社「宝光社」
祭神 / 天表春命
創建 / 1861年(文久元年)
所在地 / 長野県長野市戸隠2110
徒歩所要時間 / 火之御子社から10分、 宝光社社頭から中社約40分
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