「花の窟(はなのいわや)神社」三重県熊野市
一泊二日で訪れた熊野三山。
最後の参詣地那智大社の参拝も終え、大門坂駐車場から海岸線を走り帰路に就く。
やがて左手に「花の窟(はなのいわや)神社」の案内板を見かけたので参拝することにした。
ここは既に三重県に入ります、大門坂駐車場から所要時間は約一時間程です。
花の窟神社は道の駅「熊野・花の窟」に隣接し、駐車は道の駅で問題なし。
国道を渡るとその先は熊野灘が広がる七里御浜、とても解放感のある場所です。
海岸線から陸側を眺めると目の前に小高い山が見えます、そこが花の窟(はなのいわや)神社。
駐車場から神社は道の駅の「お綱茶屋」の間を抜け東側に進みます。
写真は施設の東外れにある熊野市指定文化財「口有馬道標」
上部が欠けた約1㍍ほどの石碑で「右 くまのさん 志ゆんれい」と記されていますが、建立年月日などは彫られていない。
解説によれば
「道標は本来「右」「左」と示すが熊野三山、西国巡礼はここから右に曲がって行くべしという指示のみ刻む。
右に曲がらず、眺めの良い松林道を真っすぐに行くと、行く手に志原川が海に注ぎ、橋もない当時は渡し舟が上流にあったものの、渡し賃を節約し波打ち際を渡ろうとして、高波にさらわれる人も多かった。
かつての志原川西岸の松林には十四基の無縁墓碑が並んでいたという。
ここ、花の窟の前は本宮道と浜街道の分岐点で、人々はともすれば風光明媚な浜街道を選んでしまうため、安全な道は有馬村本街道に廻るように道標を建て警告したもので、地元の人たちの他国からくる旅人を思いやる心情がうかがえる。
指定 平成十一年一月二十八日 熊野市教育委員会」
この道標の後方には覆屋があり、中には「口有馬竜宮塔」と云う石標があります。
こちらは塩害を防ぐため湊切りで犠牲になった人々と海の神竜宮神の怒りを鎮めるために建立された塔があります、参拝後に寄るつもりでしたがすっかり忘れ見逃してしまった。
「口有馬道標」から道路を隔てた向かいが「花の窟(はなのいわや)神社」社頭。右に社標と略記がある。
花の窟(はなのいわや)神社略記
「祭神 伊弉冉尊、軻遇突智
神代の昔より花を手向け祀るので花乃窟と言う。
窟の頂上よりかけ渡すお綱は神と人をつなぎ神の恵みを授けて下さるお綱なり」お綱茶屋はここからきているのか。
参道は杜の中に向かって真っすぐに続きます。
正面に社殿らしき姿と参道左に赤い鳥居が見えます。
鳥居の主は稲荷社のようで、左奥に向かって奉納鳥居が連なっています。
参道の先には岩壁を背にした二つ社殿。
左は「稲荷大明神」
本殿前には二対の狛狐が守護しています。
覆屋の中に丸い円盤状の石が山積みにされている、願いの数を表しているのか?
稲荷大明神について解説や由緒は見当たらず、残念ですが詳細は分かりません。
右の覆屋の中で祀られるのは「黄金竜神」
幟に開運と書いてあり、しっかりお願いさせてもらいました。
花の窟(はなのいわや)神社には一般的な拝殿や本殿はありません。
参道の先に見える建物は境内唯一の建造物となる参籠殿。
花の窟神社由緒書は以下
鎮座地 三重県熊野市有馬町上地一三〇の三
祭神 伊弉冉尊、軻遇突智尊
例祭 春季大祭二月二日 秋季大祭十月二日
由緒
日本書紀に「一書曰(あるふみにいわく)伊弉冉尊火神を生み給う時に灼かれて神退去ましぬ、故れ紀伊国熊野の有馬村に葬しまつる土俗此神の魂を祭るには花の時に花を以って祭る。
又鼓 吹幡旗を用て歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以て祭るより起これる名なり。
花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。
此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祀る。
この神、伊弉冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文九年九月、及び元禄八年十一月四限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令された。
又、昭和二十三年四月十日上皇陛下が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立ち寄りあらせられる。
昭和三十七年五月二十一日昭和天皇が熊野行幸啓遊ばされ當神社前浜に奉迎台が設けられ、三万市民心からお迎えを申し上げた」
参籠殿左の手水鉢と参籠殿前に狛犬。
参籠殿を抜けると目の前に巨大な岩壁が現れます。
境内は杜が作る影に包まれ、静寂な空間に陽ざしを浴びて輝く白い岩。
その前に立つと優しく包み込まれているような錯覚すら感じます。
「伊弉冉尊」
この岩自体が御神体、この拝所から参拝します。
祭神は伊弉冉尊。
中央の大きな窟は伊弉冉尊の女陰とされる「陰石」、ゴトビキ岩は「陽石」とされ、それらで一対をなすとも云われるようです。
国生み、神生みの神はこの大きな窟に葬られているという。
御神体には複数の穴があいていて、境内の白石をここに納め祈願すると願いが叶うと云われています。
「軻遇突智尊」
伊弉冉尊と向かい合う様に注連縄が張られた岩があります。
祭神は軻遇突智尊
伊弉冉尊は火の神軻遇突智尊を出産時に自らの体まで焼かれ死んでしまいます。
母親と子が向かい合う様に祀られている。
御綱掛け神事
紀伊風土記寛文記に「昔祭には 紅の縄 錦の縄 金銀にて造り散らし花の祭また火の祭と云いしと 錦の幡は毎年朝廷より献上されたが 何れの年に熊野川の洪水にて旗を積みたる御船破れしかば 土俗祭日に至り 俄にせんすべくなく 縄にて幡の形を作りしが 其後錦の幡の事絶えて縄を用ゆると」
今土俗の用ふる所は、縄を編みて幡三流の形を造り、幡の下に種々の花を括り、又、扇を結び付けて長き縄(一一〇尋)を以って窟の上より前なる塔に高く掛け、三流の幡窟の前に翻る。
この神事は昭和四十三年三月二十八日、三重県無形文化財に指定される。
平成十六年七月ユネスコ世界遺産登録
三重、和歌山、奈良の三県にまたがる熊野古道などを含む「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産(文化遺産)に花窟神社も登録。
高さ45㍍と云われる岩壁、この岩そのものが伊弉冉尊です。
旗縄
三神を意味するもので「三流の旗」と呼ばれるそうです。
三神とは伊弉冉尊の子の太陽の神/天照大神、月の神/月読尊、大海原、統治の神/素戔鳴尊を指していると云う。
解説だと地上の柱から45㍍の御神体の頂まで縄で繋がれるようですが訪れた時は写真の状態でした。
とはいえ、この縄は人と神を結ぶものである事に違いはない。
参籠殿には、御綱掛け神事の様子を伝える写真が掲げられています。
この神事や派手な伽藍を持たない花の窟(はなのいわや)神社は、自然(神)への畏敬と感謝の念を持つ日本人の根源を感じさせてくれる。
豊かな自然に育まれる熊野、八咫烏が飛んでいても不思議ではない。2021/2/22
2021/9/8、御神体の岩が一部崩落、本記事の写真は崩落前の姿で現在の状況を示すものではありません。
花の窟(はなのいわや)神社
創建 / 不明
祭神 / 伊弉冉尊、軻遇突智尊
境内社 / 稲荷大明神、黄金竜神
所在地 / 三重県熊野市有馬町上地130番地
那智大社から車移動 / 大門坂駐車場から国道42号線と国道311号線を一時間程
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