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『鍋山摩崖仏』

鍋山摩崖仏。
既に掲載した『田染三宮八幡社』から、桂川沿いを下流に向け5分程歩いて行くと、鍋山摩崖仏の入口に到着します。
鍋山摩崖仏は、大分県豊後高田市にあり、国東半島周辺に点在する古代仏教施設の一つです。
一帯は国東半島の豊かな自然に囲まれ、ここ鍋山摩崖仏は眼下に桂川が流れ、桂川右岸の急峻な斜面に露出した岩壁に摩崖仏が彫られています。
周辺にはこうした地形から複数の摩崖仏が点在しています。

写真は県道沿いに立つ「鍋山摩崖仏」の案内板です。
ここから右の急斜面に作られた約80段の石段を登っていくと、鍋山摩崖仏に辿り着きます。
距離はさほどありませんが、草木に包まれた細くて急な石段が続きます。
時折人が訪れているようで、石段を上っていてもクモの巣一つ架けられていません。

この様な急勾配の石段が摩崖仏まで続き、境内までは足元の注意が必要です。

石段を登り切ると僅かばかりの平地が開けます。
写真は石段付近で見かけた手水石或いは礎石だろうか。

上は境内に立てられている「国指定史跡 熊野摩崖仏 附 鍋山摩崖仏」の標柱。
鍋山摩崖仏は、大分県豊後高田市鍋山地区にある、鎌倉時代と推定される仏像が刻まれた岩壁で、昭和30年(1955)に指定を受けています。

境内に立つ鍋山摩崖仏解説。
「鍋山摩崖仏 国史跡
所在地 豊後高田市大字上野字高取
指定年月日 昭和30年2月15日
制作年代 鎌倉時代と推定
解説
約80段の石段を登ると鍋山の中腹岩壁に不動三尊が雄勁に半肉彫りしてある。
中尊の不動明王立像は像高約230㌢右手に宝剣、左手に索を持つ。
脇侍は向かって右の矜羯羅童子像が像高約121㌢合掌姿勢、向かって左の制多迦童子立像が像高約121㌢の扼腕姿勢。
田染村〇に云う「上野不動堂2間4面の草堂なり丈余の摩崖仏を覆う。
また境内には山林5反22歩を有す。」
鍋山の盤石に安住する不動三尊盛行であった不動信仰、過ぎ去りし昔がしのばれる。
豊後高田市教育委員会」

脱色し識別が出来なかったものは〇としてある。
富貴寺の国東塔や仁王像、そしてこうした摩崖仏等の石像文化や仏教文化が国東半島一帯で広まったのも
大陸に近い九州という土地柄と岩盤が露出した山々が連なる地形の影響もあったのだろう。
そうした自然と人々の暮らしが育んだ文化遺産とってもいいのかもしれない。

石段正面に見上げるばかりの巨大な岩壁。
その岩壁に寄り添うように覆屋が建てられています。

覆屋正面からそそり立つ岩壁と内部の鍋山磨崖仏不動三尊像。

覆屋内から眺める不動三尊像の全景。
正面に右手で宝剣、左手に羂索を握りしめた不動明王の立像がこちらを見据えている。
長年の風化により左右の脇侍の姿はほぼ原形を留めていない。

中央の不動明王。
像高約230㌢とあったが、間近で見る姿はそれ以上に大きく感じます。
長年の風化から、細部の表現が不明瞭なのが残念ですが、剣と羂索、それらを握りしめる手の描写など、数百年前の先人達が抱いた信仰心の集大成「摩崖仏」は今も見事に伝えられています。

向かって右の矜羯羅童子像。
合掌姿勢とあるが、風化が進んだ現状から、そうした姿をイメージすらできないのが惜しまれます。

左の制多迦童子立像。
岩肌の窪みに安置されている石仏は見られるものの、扼腕姿勢の像の姿はもはや見られません。
自分には中尊の不動明王しか見えませんが、ここに描かれている不動三尊の像容は、ここから車で2~3分程西の田染真木地区に鎮座する真木大堂の「木造不動明王・二童子立像」(国重文・平安時代後期)と類似しているとされ、これをモデルに鍋山磨崖仏の不動三尊像が造立されたとする説もあるようです。

上の写真は、覆屋の右側の岩壁に祠を作り、2体の石仏が安置されている様子が分かると思います。覆屋の左側の岩肌にも同様に石仏が安置されています。
鍋山摩崖仏は、国東半島の風土や長い年月をかけて形成された地域特有の文化が育んだ貴重な文化遺産だと感じます。鍋山摩崖仏を訪れる魅力の一つとなっています。
鍋山摩崖仏
所在地 / 大分県豊後高田市
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