湖国の残影!! (遠い遠い記憶)
私は、産まれも育ちも、湖国の田舎です。遠い記憶の中に、なぜか、
蒲の穂が多く残っています。その湿地帯を、恐る恐る、かき分け進み、開けると、必ず湖面が現れます。夏の初めだったか、終わりだったか、泳ぎに行くことが、自分の生活くらいに思って居た幼少きの経験です。
暑さから逃れるように、水の中で、はしゃぎ疲れたら、首まで浸かった深場で、両足のつま先で、湖底を探ります。多い所、少ない所など有りましたが、必ず足先には、シジミの感触が有りました。何時ものとおり、パンツの中に入れてきた、ビニール袋を取り出し、足指で捕獲した貝を、手に移し、袋一杯まで、採れたら、戦利品のごとく持ち帰ります。
お盆になると、3家族くらいの親戚が、田舟に乗り込み、おにぎり、煮しめ、スイカなどなど持ち込み、竹竿で湖の深場まで押出します。どんな構造に成っていたのか記憶に有りませんが、船外機のスクリューで、風光明媚な所まで移動します。直線距離にして10Km以上あつたような気がします。
そこは毎年来る所で、岩場で深い所でした。当然、子供の私には背の立つ水深ではありません。泳ぎ馴れている私は、なんの恐れも無く、田舟の縁から飛び込みました。水深などなんの問題もありません。散々舟の回りを泳ぎ回り、少し休みたい気持ちで、大きな岩場に両手と片足を掛けて、よじ登ろうとしました。ところが、岩場の藻で片足が滑り、そのまま反動で、水中に投げ出されました。疲れて居たのと、思わぬ反動で、水中で暫く、もがき苦しみました。水を大量に飲み、これまでかとの思いも経験しました。
私には自分の住まいの近くに、母方の祖父が居ました。よく遊んで貰いました。昔の湖国の人は、淡水魚をよく食していたようです。祖父も例外にもれず、特に魚摂りの名人でした。幼少期の記憶ですから、本当に名人だったか定かでは有りません。投網を肩に担ぎ、片手に私の手を取り、河原によく行きました。後年、老化も進み、河原で二人並んでよく休みました。
祖父が遠くの川面を指差し、少し変わった波紋を遠目で教えながら、あの浅瀬は、産卵の為に、魚が群れている。その波紋を、観て感じるようにと、教えるのです。それでは、その川面に指し足で近づき、網を投げるのかと想像して居ると、大切な網を、私に押し付け、投げてこいと促すのです。
この歳に成っても、川面に近づくと、思わず、魚の産卵の気配を探してしまいます。
冬になると、その祖父が又、私を呼びに来ます。川に魚が、産卵のために遡上する時期でもないのですが、自分の趣味のために、私を連れ出すのです。雪が積もる湖岸の川筋の、陽のあたる場所に、持参した小さい目の網(トンボを採るやつの5倍くらい大きなもの)を川縁に沈め、一緒に持参した竹竿を、私に渡し、タモの3・4メータ離れた所から、川縁を順番に突きなら、網に向って、小魚を追い込むように促します。突き刺す竹竿が、網に近づく頃合いを観て、網を引き上げます。小魚や小エビ、ドンコなどが網に残っています。それをおおまかなゴミを捨てて、バケツに振り落とします。場所を換えて、自分の思う量まで、私を付き合わせます。帰りには私の家の近くで、戦利品を半分に分け、私に持ち帰らします。母が帰ると、何時ものときのように、小魚の苦い内蔵を、爪で押し捨て、合わせて小さなゴミを取り除きます。小エビなどと共に、保存しておいた大豆と共に炊き上げます。
真夏でも、祖父は、私を、呼びに来ます。投網を持参していて、田舟の係留場所から、竹竿で芳原へ繰り出します。ほとんど物音を絶てずに湖面を進みますと、底から小さな泡が湧いているのかと、思いきや、それは魚の群れが、酸素不足で、界面近くで、口パクをやっているのです。私を舟先に乗せ、自分しか出来ないとばかりに、細心の注意で、魚の群れに、舟を近づけます。私は舟先で、事前準備した投網を、最大近づいたと思う瞬間、群れの真ん中、目がけ、投げ打ちます。大体、私も、網と同時に水面に、飛び込んで居ます。祖父と私の華麗なる連携技です。ワタカという湖魚ですが、多く入ると2・30匹、上手く舟に揚げないと、網元から溢れ落ちます。
ワタカやハスなどは、40から50匹、まとめて塩で2ヶ月程漬けます。
その後、塩を洗い流し、新たな塩を眩したご飯で、空気が入らぬよう、塩漬けした魚と共に、押し漬けします。本当はフナと言う魚で行うのですが、湖国の人は、魚種にこだだらず、魚がまとまって手に入った時に保存食として、漬け込みます。他県から嫌われる、ぞくに言うフナ寿司と言うものです。他県でも、好きな人は、隠れて食しているらしいです。今や、フナも漁獲量も減少して、作る人も減少して、高級珍味として売られているようです。私は大好きなのですが、腎臓不全の宣告と同時に、ドクターストップとなってしまいました。