
「ラーソン医師は、検死結果について上官から口止めが有ったと発言して居ます。それは、記事のコピー(紙)で確かめてあります。」などと嘘をつく自称「歴史見直し主義者」の西岡昌紀さん
はじめに
この記事タイトルについて
この記事タイトルは、以下のTogetterまとめの記事(2025年2月現在はposfie)のタイトルに肖ったものです。
このまとめ記事は、X上のホロコースト否定派に大人気の記事のようで、よく知らないけど「しっかりまとめられている」んだそうです。こんなのが「しっかりまとめられている」? X上のホロコースト否定派の知的レベルがよくわかるまとめではあります。反論は以前にも簡単にはやったような記憶もありますが、どこだったか忘れたし、今回はどうでもいいです。一応そのまとめの下にあるコメント欄で怒涛のように反論しているのは、私自身のアカウント(いわゆる別垢)ですけど、ちょっと古いのであんまり見て欲しくありません💦 実は、そのまとめ主に最初にコメント投稿していた時期のコメントが全部消されていたりします。しかし、その「通行人@satoru_mouse」のものは何故か消されていません。
名誉毀損について
今から書くことが個人への名誉毀損になり得るとの危惧から、名誉毀損になるかどうかについて検討を行いました。
名誉毀損罪は刑法に規定があります。
第230条
1 . 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀き損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する。
具体的な話はご自身でお調べいただくとして、最も大きな問題は、例えば私が書いたことがたとえ真実(ここでは「事実」とは意味が異なります)であっても、名誉毀損は成立し得るということです。
しかしそれでは、例えばマスコミは犯罪などの事実を報道出来なくなってしまいます。犯罪報道された容疑者、あるいは刑が確定した人などについては、その事実を報道すると、明らかに名誉毀損になってしまうからです。
そこで、名誉毀損にはならない場合があるとされています。これが「刑法第230条の2」と呼ばれる条文です。
第230条の2
1 . 前条第1項の行為が①公共の利害に関する事実に係り、かつ、その②目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、③事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
2 . 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。
3 . 前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
これらの解説は省きますが、以下で書くことは、ホロコースト否定というデマを扱うものであり、かつ、日本を代表するであろうホロコースト否定論者(本人は見直し主義者と自称する)である西岡昌紀氏に対するものであり、西岡氏のホロコースト否定論を信じる人はネット上などで多数見受けることから(参考までに2025年2月13日現在のXでのフォロワー数は3,663名)、これらのことから上記①と②を満たすと考えます。また③について、これから書くことで満たすことになると考えます。
さらに、名誉毀損訴訟においては「真実相当性」という要件が重要になることも知っています。これも、詳細説明は省きますが、摘示された事実の重要な部分を真実と信ずることについて相当の理由があれば、名誉毀損には該当しないとするものです。私は以下で書く内容が真実に足る相当の理由があることを示していると考えます。
西岡昌紀氏とのこれまでの経緯
元々私がホロコースト否定に興味を持ち、旧Twitter上で活動し始めた頃からホロコースト否定をテーマとして使っていたアカウント(@mss2400)が凍結されてしまい、確認できないため、記憶を元に語るしかありませんが、おそらく2020年ごろに西岡氏とはファーストコンタクトをしていたと思います。
西岡氏が、1995年にいわゆるマルコポーロ事件で有名になって以降、彼がインターネット上でずっと、ホロコースト否定の主張を行ってきたことはネット検索等で簡単に知ることができます。かつてネット掲示板のように使われていたメーリングリストや、初期のSNSであるmixiなどの掲示板等でそれらは確認することができます。もちろん、X(旧Twitter)でもそれは例外ではありません。
私は、ホロコースト否定論というデマに対して強烈に憤りを感じており、またそれがデマであることを暴く、要するに反論をする活動をしている人がほとんど日本語のネット上には見当たらないことから、誰もやっていないのなら私がやろうと決意して反ホロコースト否定論の活動をやり始めた2020年ごろ、その頃にはすでに、旧Twitter上でホロコースト否定論を主張する人たちのほとんどが西岡氏をいわば教祖のように見做して信頼していたことを知っていました。
私としては、人よりもその主張の中身、つまりホロコースト否定論それ自体への反論活動が主体でしたが、旧Twitter上で活動する以上、西岡氏をはじめとする、旧Twitter上に存在するホロコースト否定を主張するアカウントをやり取りすることは避けられなかったのです。というか、その人たちが何故、ホロコースト否定論という明白なデマを主張するのか? その理由を知りたかったというのも大きな理由でした。従って、当然旧Twitter上でも活動している西岡昌紀氏をやり取りすることは避けられなかったし、むしろ避けようとは思いませんでした。
多分、2025年現在まで、断続的に5回ほど、西岡氏とは論争を繰り返してきました。そのうち一回は三ヶ月くらいに渡るほどで、私からブロックしたのが一回、西岡氏側からブロックされたのが一回、というような有様でした。私が西岡氏をブロックしたのは、明らかな間違いを何度指摘しても認めようとしないからで、頭に来たからだというものでした。西岡氏が私をブロックしたのは、彼が自著である『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』を読んでないからだ、とするものでしたが、私はそんな約束をした覚えは全くありません。読む気もないのに、約束するわけもありません。ただしその西岡氏によるブロック後、AmazonのKindle Unlimitedサービスを一時的に契約して、全編読み、徹底的にその内容を論駁しています。
このように、私の活動は必然的に西岡昌紀氏を最大の論敵とするようになったのです。
「チャールズ・ラーソン」とは何か?
西岡氏との決別
2025年2月12日、私は遂に西岡昌紀氏と決別することを決め、以下の投稿を行いました。なお、二つの画像に分けているのは、その間にある画像が長すぎて一度にスクショできなかったからです。その画像の部分については後述します(ウィチタ・イーグルの当該記事です)。以下の投稿以降に数回、西岡氏宛に投稿を行っていますが、最後っ屁みたいなものなので気にするほどのものではありません。西岡があたふたしてるからちょっと揶揄おうと思っただけです(笑)
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簡単に言えば、西岡氏は明確な嘘をついたことを、これ以上ない形ではっきりさせたからです。西岡氏自身は認めようとしませんが、仮に西岡氏が意図的な嘘ではなく、ただ単に勘違いしていただけだとしても、誤情報であることには違いありません。西岡が大量の誤情報を披露してきたことは、前述の西岡本への論破記事に書いてあります。
西岡氏はどんな明確な嘘=誤情報を披露していたのか?
これは後述で説明される、チャールズ・ラーソンという、第二次世界大戦でのドイツ敗戦後に、西側連合国(米国)の一員として、ナチスドイツの強制収容所に入り、それら収容所にあった囚人の遺体の検死を行なっていたとされる人物について、です。
その西岡の嘘とは、簡単にいうと、1980年(記事の発行日は4月1日)にラーソンがウィチタ・イーグルというアメリカのカンザス州で発行されている日刊新聞のインタビューに答えた記事で、その記事には書いてないことを西岡はこう書いてあったとしたのです。
連合軍に従軍し、西側の収容所で、ドイツの戦争犯罪を訴追する目的で多くの死体を解剖した唯一の法医学者チャールズ・ラーソンは、1980年に、何らかの毒ガスで殺された死体は実は一体も無かった事、しかし、その事実を口外してはならないと言はれて居た事をマスコミのインタビューで告白して居る。ラーソン博士に依れば、当時、ラーソン博士以外にこうした解剖をして居た法医学者、病理学者は一人も居なかったと言ふ。
この西岡の言い分自体は、西岡が過去にブログ上で公開していた文章の中にあったものだと記憶していますが、2025年2月現在はGoogleで検索しても見当たらず、文章自体は私の別の記事とX中のやり取り及び、5ちゃんねるに現在も残るスレッド(こちらの350番目の投稿)の中くらいにしか見当たりません。5ちゃんねるの方は、情報源を記載していないため、西岡氏のブログからのコピペであるかどうかは不明です。しかし「言はれて」「居る」という日本語表記は西岡氏独特のものなので、見る人が見ればすぐわかります。もちろん私自身は知っていましたし、西岡氏自身が自分のものであることを、前述した投稿画像にあるように認めています。
しかし、強調した部分「しかし、その事実を口外してはならないと言はれて居た事をマスコミのインタビューで告白して居る」は、ウィチタ・イーグル紙の当該記事中にはないものなので、嘘であることはこの文章を発見した時点(おそらく2021年頃)で知っていました。ウィチタ・イーグルの当該記事が、欧米の修正主義者のサイトであるCODOHのフォーラム掲示板にアップされていたからです。ただし、その記事自体をその時点ではまだ突き止めていなかったため、フォーラム掲示板にあった記事内容が投稿者によるテキスト形式だったので、全文ではない可能性が高いと考え、その時点では西岡にその事実を突きつけることまではしませんでした。西岡は絶対に「そのテキストにはない箇所に書いてあったはず」と言い訳するに違いないと思っていたからです(事実彼は今回そのように言っています)。
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これは私は最初は、そのCODOHの投稿記事から当該記事部分となるテキストだけを抜いてその画像を示したからです。実はその投稿直前に、記事自体が newspapers.com というサイトで閲覧可能であることを突き止め、当該の新聞記事自体を発見していたのですが、わざと西岡氏に嘘をつかせる目的で、先にCODOHの投稿記事画像を示したのでした。
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実際にはこの前にも同じ画像を示して質問していたのですが、西岡氏はどうも、拙い指摘や返事しにくい質問を無視する傾向があると私は睨んでおり、今回もその一度目は無視されていたので、再度この投稿を行なったのです。
ともかく、西岡氏の述べた「しかし、その事実を口外してはならないと言はれて居た事をマスコミのインタビューで告白して居る」は西岡氏の捏造・嘘である可能性が極めて高いと考えられます。可能性が高いからと言って嘘とは断言できないだろう?と思われるかもしれませんが、以下の当該記事に実際に書いていない以上は、常識的に捏造・嘘と断言していいと思われます。
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世の中には、自分自身の作り話を本当だと自分自身で思い込んでしまう病気もある(例えば統合失調症や妄想性障害など)ので、西岡氏は自分の作り話であることを忘れ、本当に読んだと思い込んでいるだけの可能性もありますが、そんなことを言い始めたらきりがありません。しかも西岡は、私は最初以下のように尋ねただけなのに、すぐに思い出しています。

私はチャールズ・ラーソンのことだとか、ウィチタ・イーグルのことだなどと一言も言っていません。これは、推理小説などで犯罪者が思わず犯罪者しか知り得ないことをうっかり漏らしてしまうのと似ていると思います。もちろん、正確にはそれとはやや違いますが、自分で書いたという事実自体をはっきり覚えているのは確かです。
チャールズ・ラーソンの話の始まりは?
簡単な説明は以下にあります。
今回はその始まりに近い(おそらくラーソンの話はそれ以前から修正主義者界隈では知られていたと思います)と思われる、米国の修正主義者、セオドア・オキーフの記事の翻訳をまず紹介します。以下の翻訳は長いですが、記事の本文のうちで強調した部分だけが関連します。また、脚注部分は英文のままコピペしてありますが、強調した部分だけが今回の話の対象部分です。記事自体への反論や解説は致しませんので、興味があればご自身でお調べください。ちなみにランプシェードなどの話は、私が翻訳してきた過去記事の中でダントツで一番人気のものがありますのでご参考に。
▼翻訳開始▼
収容所の解放:事実対虚偽
セオドア・J・オキーフ
ホロコーストの物語の信憑性をアメリカ人の心に刻み込むうえで、第二次世界大戦の終結時にアメリカ軍がドイツの強制収容所に突入して目の当たりにした恐ろしい光景ほど効果的なものはなかった。
ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ドラ、マウトハウゼン、その他の労働・収容キャンプにおいて、驚愕するアメリカ軍歩兵は、衰弱し病に侵された死者や瀕死の囚人の山を目撃した。生存者たちは彼らに、拷問と虐殺の戦慄すべき話を語り、火葬炉、処刑用とされるガス室、拷問の道具とされるもの、さらには、死亡した囚人の皮を剥いで作られたとされる縮んだ頭部やランプシェード、手袋、ハンドバッグまでを見せ、それらの証言を裏付けた。
アメリカ政府当局は、第一次世界大戦中に流布された残虐行為の話を覚えている多くのアメリカ人が、ヒトラー政権に対する連合国のプロパガンダを依然として疑っていることを意識し、アメリカ兵が収容所で発見したものを「記録」することを決定した。著名な新聞記者や政治家が現地へ飛ばされ、衝撃的な証拠を視察し、アメリカ陸軍通信隊はその光景を後世のために撮影・記録した。有名なジャーナリスト、エドワード・R・マローは、恐怖に満ちた口調で、しかしもはや疑念を交えることなく、自らが見聞きしたことを報道した。こうしてダッハウとブーヘンヴァルトの名は、この悲惨で血塗られた地球の歴史の中でも類を見ない汚名として、アメリカ国民の心に深く刻み込まれた。
アメリカ人にとって、収容所で「発見」されたもの――死者や病人、囚人たちの恐るべき証言、拷問と恐怖を象徴するあらゆる小道具――は、一時的なプロパガンダの材料ではなく、「そうだ、これは事実なのだ。ドイツ人は600万人のユダヤ人を、大部分は致死性のガス室で抹殺したのだ」という確信の根拠となった。
アメリカ兵が発見したものは、敗戦したドイツ国民に義務的に見せる映画を通じて利用され、ドイツ人の民族的誇りと、統一された独立国家を目指す意志を破壊し、その代わりに圧倒的な集団的罪悪感と政治的無力感を植え付けることで、ドイツ人を「再教育」するために用いられた。そして、ニュルンベルク裁判の証言と判決が、アメリカ軍に占領されたダッハウやブーヘンヴァルトその他の場所について語られた恐怖物語のほぼすべて、あるいはその全体を取り込んだとき、ホロコーストは人類の歴史の中で最も記録され、最も立証された出来事の一つとして通用するようになった。
別の現実
しかし今日では、収容所解放後まもなく、アメリカ当局が、軍の広報将校、政府報道官、政治家、ジャーナリストその他の代弁者たちに指導していた物語とは、収容所の実態が大きく異なることを認識していたことが知られている。
1945年春、アメリカ軍とイギリス軍がドイツ中西部を制圧すると、ドイツの戦争犯罪の証拠を発見し確保する任務を負った部隊がこれに続いた。
その中には、アメリカを代表する法医学者の一人であり、アメリカ陸軍法務総監部に配属されていたチャールズ・ラーソン博士もいた。アメリカの戦争犯罪調査チームの一員として、ラーソン博士はダッハウをはじめ約20か所のドイツの収容所で検死を行い、ある日には100体以上の遺体を調査することもあった。ダッハウでの厳しい作業の後、彼はアメリカ軍検察官によって3日間にわたり尋問を受けた[1]。
ラーソン博士の調査結果はどうだったのか。1980年の新聞インタビューで彼はこう述べている。「私たちが聞かされてきたのは、600万人のユダヤ人が抹殺されたということだ。その一部はでっち上げだ」[2]。では、どの部分がでっち上げだったのか。彼の伝記作家に対し、ラーソン博士は、自身の知る限り「連合軍の欧州戦線全域で任務に就いていた法医学者は自分一人だった」と語り[3]、さらに「毒ガスによる殺害の証拠は一件たりとも発見されなかった」と断言している[4]。
チフスであり、毒ガスではない
では、ダッハウ、ブーヘンヴァルト、ベルゲン=ベルゼンで亡くなった不運な犠牲者たちは、毒ガス以外のどのような方法で命を落としたのか。彼らは拷問で殺されたのか、それとも意図的に餓死させられたのか。この問いに対する答えもまた明らかになっている。
ラーソン博士や他の連合国の医療関係者が明らかにしたように、ダッハウやベルゼン、その他の収容所における主な死因は病気、とりわけチフスであった。チフスは古くから人類を苦しめてきた恐ろしい疫病であり、近代的な公衆衛生対策が存在しない、または機能不全に陥った密集地域で流行することで知られている。戦争末期のドイツにおける過密状態の収容所はまさにこの典型例であり、組織的なシラミ駆除や病人の隔離、遺体の火葬といった対策が講じられていたものの、ドイツの食糧供給、輸送、公衆衛生システムがほぼ完全に崩壊したことで、壊滅的な事態に至ったのである。
収容所におけるチフスの流行と死亡率に関する最も権威ある見解の一つは、ハーバード大学公衆衛生学部で予防医学および疫学を担当していた医学博士・哲学博士のジョン・E・ゴードン博士によるものである。彼は1945年にアメリカ軍の一員としてドイツに滞在し、1948年の報告において「強制収容所や刑務所での発生が、ドイツで確認されたチフス感染の大部分を占めていた」と述べた。ゴードン博士は、これらの流行の原因を以下のようにまとめている[5]。
1945年4月と5月の春のドイツは、驚くべき光景であった。あらゆる方向へと移動する人々が入り乱れ、住む家を失い、しばしば飢え、チフスを持ち運んでいた…。
ドイツは混乱の渦中にあった。都市全体の破壊と、進撃する軍隊が残した爪痕が生活環境を崩壊させ、病気の拡散を助長していた。衛生状態は劣悪であり、公共設備は深刻な打撃を受け、食糧供給とその分配は不十分で、住宅は不足し、秩序と統制は至るところで失われていた。さらに重要なのは、過去に類を見ない規模で人口の移動が発生していたことである。
ゴードン博士の調査結果は、現在国際的に著名な精神科医であるラッセル・バートン博士によっても裏付けられている。バートン博士は1945年、若き医学生としてイギリス軍と共にベルゲン=ベルゼンに入った。病に苦しむ生存者の治療を自ら志願した彼は、1985年、トロントの法廷で宣誓の下に証言し、「第二次世界大戦中にベルゲン=ベルゼン収容所で死亡した何千人もの囚人は、意図的に餓死させられたのではなく、次々と発生した病気によって命を落とした」と述べた[6]。
さらにバートン博士は、収容所に入った当初は意図的な飢餓に関する話を信じていたが、設備の整った厨房や、1942年まで遡る詳細な記録――毎日調理・配給された食料の帳簿――を確認した結果、そのような話は事実ではないと判断したと証言している。
喧伝され広く信じられている主張とは裏腹に、ドイツの収容所において飢餓による絶滅政策が実施されたことを立証した研究者は一人もいない。
「人皮」のランプシェードは存在しなかった
では、収容所の囚人が刺青のある皮膚を剥がされ、ランプシェードやハンドバッグ、その他の工芸品にされたという怪奇じみた話はどうなのか。また、無数の「拷問台」「肉吊り鉤」「鞭打ち台」「絞首台」など、あらゆるドイツの収容所に拷問や処刑の道具が溢れていたとされる話はどうか。これらの主張、さらにはソ連の検察官によって提起されたより一層グロテスクな話までもが、ニュルンベルク裁判の記録に残された。
ランプシェードや刺青皮膚に関する告発は、ジャーナリストによって「ブーヘンヴァルトの雌犬」と呼ばれたイルゼ・コッホに向けられた。彼女は、不運な囚人のなめし革で作られた品々を自宅に飾っていたと報じられた。
しかし、1948年に彼女の事件を再調査したアメリカ占領統治地区の軍政長官ルシウス・クレイ将軍は、ワシントンの上官に対し、「彼女(イルゼ・コッホ)が刺青のある皮膚を得るために囚人を選んで処刑させた、あるいは人皮で作られた品を所持していたという証拠は、説得力を欠いている」と報告した[7]。
その後、クレイ将軍はインタビューで、悪名高いランプシェードの材料について「実際にはヤギの皮であることが判明した。しかし、裁判ではなお人の皮とされていた。彼女が公正な裁判を受けることはほぼ不可能だった」と述べている[8]。イルゼ・コッホは1967年にドイツの刑務所で自殺した。
ナチスの残虐行為に関する無数の奇怪な主張を一つ一つ列挙し、論破することは退屈な作業である。しかし、ドイツ側にも残虐行為があったことは、ライヒ刑事警察に所属していた法務調査官コンラート・モルゲン博士の証言によっても明らかである。彼のニュルンベルク裁判での証言は、ホロコーストの支持者たちによって一度も異議を唱えられたことがない。
モルゲン博士は法廷で、ヒムラーから全権を与えられ、ドイツのどの収容所にも立ち入り、収容所職員による残虐行為や汚職の調査を行ったと説明した。彼の調査は800件に及び、その結果、200件以上の有罪判決が下された[9]。処罰の中には死刑も含まれ、リュブリン(マイダネク)収容所の所長ヘルマン・フロルシュテットや、イルゼ・コッホの夫であるブーヘンヴァルトの所長カール・コッホも処刑されている。
一部の収容所長が囚人に身体的な懲罰を加えた事例もあったが、そのような行為はベルリン当局の承認を必要とし、さらに懲罰対象の囚人が健康であることを収容所の医師が事前に証明し、実際の鞭打ちの際にも立ち会うことが義務付けられていた[10]。
そもそも、戦争の大半を通じて収容所は重要な産業拠点であった。囚人の健康と士気の維持はドイツの戦争遂行に不可欠であり、そのことは、1943年1月に強制収容所監督局長のSS大将リヒャルト・グリュックスが発した命令にも明確に示されている。この命令では、収容所長に対し「被収容者の体力を維持するためにあらゆる可能性を尽くすことについて、個人的責任を負う」としている[11]。
収容所の生存者:ただの犠牲者?
アメリカ陸軍の調査官たちは、ブーヘンヴァルトやその他の収容所で、経験豊富な囚人たちの間で常識となっていた事実をすぐに確認した。それは、収容所の最も悪質で残酷な者たちが守衛ではなく、むしろ囚人自身であったということだ。今日のアメリカの刑務所にいる常習犯と同じような人物たちが、多くの悪事を働き、特に権限を持った立場にあるときにその悪行を強化し、また、共産主義者たちは、収容所内での政治的敵を徹底的に排除するために組織化され、スターリン主義の冷酷さで自らの敵を排除していた。
ブーヘンヴァルトのアメリカ陸軍の調査官、エゴン・W・フレックとエドワード・A・テネンバウムは、収容所の解放前に収容所内の状況を慎重に調査した。彼らが上司に提出した詳細な報告書には、報告書の序文を書いたアルフレッド・トゥームズの言葉で、「囚人たちがいかにしてナチの恐怖の中に自らの死の恐怖を組織したか」が明らかにされている[12]。
フレックとテネンバウムは、犯罪者と共産主義者が行使していた権力について次のように記述している:
「信任された者たちは、最終的にはほぼ完全に共産主義者のドイツ人で占められ、すべての囚人に対して生死を決定する力を持っていた。彼らは、個人またはグループにほぼ確実に死を言い渡すことができた・・・ 共産主義者の信任された者たちは、ブーヘンヴァルトでの残虐行為の大部分に直接責任を負っていた。」
アメリカ軍政府のドナルド・B・ロビンソン大佐は、戦後すぐにアメリカの雑誌に発表された記事でフレック・テネンバウム報告書を要約した。ロビンソン大佐は、アメリカの調査官たちの発見を簡潔に次のように述べている:「共産主義者に賛同した囚人たちは食べ、賛同しなかった者たちは飢え死にした」[13]。
収容所内での囚人による残虐行為についてのさらなる証言は、アメリカ第七軍のカウンターインテリジェンス逮捕・拘束責任者であったエリス・E・スパックマンによって提供されている。スパックマンは後にカリフォルニア州サンバーナディーノ・バレー・カレッジの歴史学教授となったが、1966年に次のように書いている:「ダッハウでは、囚人たちが実際に仲間の囚人に対して残虐行為を加えた道具であった」[14]。
「ガス室」
1944年12月、アメリカ陸軍のポール・カーク大佐とエドワード・J・ガリー中佐は、アルザスのストルートフ・ナツヴァイラーにあるドイツの強制収容所を視察した。彼らはその調査結果を上司に提出し、その後、報告書はアメリカの戦争犯罪部門に転送された。その報告書の全文は重要なことに公開されていないが、ホロコースト主張を支持する歴史家によって、フランスの情報提供者から示された機器について、「いわゆる致死ガス室」と表現し、それが「致死ガス室として使用されたとされる」と述べていたことが明らかにされた[15](強調は原文のまま)。
ナツヴァイラー報告書の慎重な表現とその効果的な抑制は、ダッハウでのガス室に関する公式報告が伴った信じがたさ、混乱、そして大々的な宣伝とは対照的である。最初、アメリカ陸軍の写真では、スカルと交差した骨が描かれた鋼鉄製の扉を見つめるGIが写っており、その扉には「注意!ガス!致命的な危険!開けるな!」とドイツ語で書かれているとされ、この写真が殺人兵器を示しているとされた[16]。
しかしその後、問題の装置は単なる衣類の駆除室であると見なされ、もう一つのガス室とされるものは、巧妙にシャワールームのように見せかけられ、アメリカの議員やジャーナリストに展示され、何千人もの人々がそこで命を落とした場所だとされた。この第二の「ガス室」の運営に関する報道は多数存在するが、シャワーヘッドの機能に関するような問題を解決する公式の調査報告はまだ現れていない。例えば、それらは「ダミー」だったのか、それとも致死的なシアン化ガスが流れていたのか?(各理論は、ジャーナリズムや歴史学的文献でかなりの支持を得ている)。
ダッハウと同様に、ブーヘンヴァルト、ベルゲン=ベルゼン、そして西ドイツで連合国軍によって解放された他の収容所でも、ガス室やガスオーブンに関する宣伝が絶えなかったが、現在まで、殺人兵器とその機能に関する詳細な記述や、当時のアメリカにおいて攻撃や殺人事件を起訴するために必要不可欠な報告書は一切出ていない。
さらに、ホロコーストの権威者の何人かは現在、ドイツにはガス殺害も、絶滅収容所も存在しなかったと公言している(現在では、「ガス殺害」や「絶滅収容所」はすべて、現在のポーランドにあり、ソ連赤軍に占領され、西側の調査者に立ち入り禁止になっていたとされている)。
ミュンヘンにある現代史研究所のマルティン・ブロシャット博士は、1960年のドイツ週刊誌『ディ・ツァイト』への手紙で、ダッハウ、ベルゲン=ベルゼン、ブーヘンヴァルトのいずれでも、ユダヤ人やその他の囚人がガス室で殺されたことはないと断言した[17]。プロフェッショナルな「ナチスハンター」であるシモン・ヴィーゼンタールは、1975年と1993年に「ドイツの土地には絶滅収容所はなかった」と述べた[18]。
ダッハウ「ガス室」第2号は、かつては何百万人もの命を奪った武器として、ショックを受けた世界に紹介されていたが、現在ではダッハウ「記念施設」の観光客向けに発行されたパンフレットには次のように記載されている:「このガス室はシャワールームとして偽装されていたが、使用されなかった。」(19)
プロパガンダの激化 アメリカ軍がダッハウ、ブーヘンヴァルト、そして他のドイツの収容所に入って50年以上が経過し、アメリカの調査員がそこで何が起こったのかについて事実を確立したにもかかわらず、ワシントンの政府、ハリウッドのエンターテイメントメディア、ニューヨークの印刷メディアは毎年何百万もの言葉と映像を収容所の恐怖とホロコーストの不名誉について流し続けている。アメリカの敵の中で、敗北した南部連邦を除いて、ドイツが1945年に受けたような完全で壊滅的な敗北を経験した国は他にないにもかかわらず、大衆メディア、政治家、官僚たちはヒトラー、彼の兵士、そして彼の収容所が永遠の現在に存在しているかのように振る舞い、私たちの意見を形成する者たちは無知または悪意によって収容所についての事実を歪曲し続けている。
真実を知る時 政府と専門の歴史家たちは、ダッハウ、ブーヘンヴァルト、そして他の収容所についての事実を明らかにする時が来た。収容所の囚人たちがどのように死に、どのように死ななかったのか、アメリカ国民に知らせる時が来た。大量殺人がガスによって行われたという主張が、他の殺人の主張と同じ方法で明確化され、調査される時が来た。また、ホロコーストの主張が挑戦されることなく享受されてきた特定のグループの優遇を終了させる時が来たと同様に、ホロコーストでの役割やそれを防げなかったとされるドイツ人、東ヨーロッパ人、ローマ・カトリック教会の階層、アメリカやイギリスの戦時指導層の他のグループへのスケープゴート化を終わらせる時でもある。
何よりも、アメリカ市民が収容所についての事実を知る時が来た。それは彼らが知る権利を持っている事実であり、その権利は国の統治における権限と意思の行使に不可欠なものである。市民として、また納税者として、アメリカのすべての民族背景を持つ人々、すべての信仰を持つ人々には、アメリカの外交政策や教育政策の決定において重要とされる出来事の事実を決定する基本的な権利と圧倒的な利益がある。さらに、私たちの市民生活において過去の出来事を記念すべきものとして選択することに対する権利がある。
今日、ホロコーストの主張された事実は文明世界全体で問題となっている。真実は事実に立ち返って公の場でのみ決定されるべきであり、事実を隠すこと、真実を否定すること、現実を無視することではない。真実は明らかになり、アメリカ政府、そして世界中の政府や国際機関が、1933年から1945年の間にドイツの収容所で実際に何が起こったのかに関する証拠を公開する時が来た。そうすることで、嘘を暴き、恐れや偏見なしに和解と再生の仕事を進めることができ、これこそが人々の間での相互の寛容と正義に基づいた平和の礎となるべきものである。
要約
戦時中のドイツの強制収容所についてのアメリカ軍の初期の調査結果は、その後のすべての調査者によって裏付けられ、次のように要約できる。
収容所での死者や病死者の惨状は、ドイツの「絶滅政策」の結果ではなく、主に連合軍の空襲の影響によって引き起こされたチフスなどの伝染病によるものであった。
ナチスの超悪党やサディストがユダヤ人や他の人々を自分の利益や娯楽のために手袋やランプシェードに変えたという話は、病的な嘘や幻想であり、実際、ドイツ当局は収容所の司令官や警備員による腐敗や残虐行為を罰していた。
一方で、新たに解放された収容所の囚人たちがヒトラー主義の殉教者として描かれることがよくあるが、それは多くの場合、真実からはほど遠かった。実際、収容所で受けた多くの虐待は、ドイツの方針や命令に反して、他の囚人たちによって行われたものであった。
いわゆる「殺人シャワー」や「ガス室」は、収容所の囚人の入浴や衣服の消毒に使用されていた。これらがユダヤ人や他の人々を殺すために使われたという主張は、軽蔑すべき捏造である。伝統的な歴史家や専門の「ナチハンター」は、ダッハウやブーヘンヴァルト、他のドイツの収容所で囚人がガスで殺されたという主張を静かに撤回している。しかし、彼らは依然としてダッハウやブーヘンヴァルトに関する嘘については沈黙し、ソ連軍が占領したアウシュヴィッツなどの収容所での殺人ガスの証拠に関する公開討論を避け続けている。
John D. McCallum, Crime Doctor [a biography of Dr. Charles P. Larson] (Mercer, Wash.: The Writing Works, 1978), pp. 44-46, 59, 69; See also: J. Cobden, "The Dachau Gas Chamber Myth," The Journal of Historical Review, March-April 1995, pp. 17-18.
Jane Floerchinger, "Concentration Camp Conditions Killed Most Inmates, Doctor Says," The Wichita Eagle, April 1, 1980, p. 4C.
J. D. McCallum, Crime Doctor (1978), p. 46.
The Wichita Eagle, April 1, 1980, p. 4C.
John E. Gordon, "Louse-Borne Typhus Fever in the European Theater of Operations, U.S. Army, 1945," in Forest Ray Moulton, editor, Rickettsial Diseases of Man (Washington, DC: American Academy for the Advancement of Science, 1948), pp. 16-27. Quoted in: Friedrich P. Berg, "Typhus and the Jews," The Journal of Historical Review, Winter 1988-89, pp. 444-447, and in Arthur Butz, The Hoax of the Twentieth Century (IHR, 1993), pp. 46-47.
"Disease killed Nazis' prisoners, MD says," Toronto Star, Feb. 8, 1985, p. A2. On Barton's similar testimony in a 1988 Toronto trial, see: Barbara Kulaszka, ed., Did Six Million Really Die? (Toronto: Samisdat, 1992), pp. 175-180, and, Robert Lenski, The Holocaust on Trial (1990), pp. 157-160, and, M. Weber, "Bergen-Belsen Camp: The Suppressed Story," The Journal of Historical Review, May-June 1995, pp. 27, 30 (n. 30).
"Clay Explains Cut in Ilse Koch Term," New York Times, Sept. 24, 1948, p. 3.
Interview with Lucius Clay, 1976, Official Proceeding of the George C. Marshall Research Foundation. Quoted in M. Weber, "Buchenwald: Legend and Reality," The Journal of Historical Review, Winter 1986-87 (Vol. 7, No. 4), pp. 406-407.
International Military Tribunal (IMT), Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal (Nuremberg: 1947-1949 ["blue series"]), Vol. 20, pp. 489, 438.
Eugen Kogon The Theory and Practice of Hell (New York: Berkley Books [pb.], 1984), pp. 108-109. See also: "Punishment for Mistreating SS Camp Prisoners," The Journal of Historical Review, Jan.-Feb. 1995, p. 33.
Nuremberg document NO-1523. Published in Trials of War Criminals Before the Nuernberg Military Tribunal (NMT "green series"), Vol. 4, pp. 372-373.
Egon W. Fleck and Edward A. Tenenbaum, Buchenwald: A Preliminary Report, US Army, 12th Army Group, April 24, 1945. National Archives, RG 331, SHAEF, G-5, 17.11, Jacket 10, Box 151. Quoted in: M. Weber, "Buchenwald: Legend and Reality," The Journal of Historical Review, Winter 1986-87, pp. 408-409.
Donald B. Robinson, "Communist Atrocities at Buchenwald," American Mercury, October 1946, pp. 397-404.
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John Cobden, Dachau: Reality and Myth (IHR, 1994), pp. 25-29. See also: The Journal of Historical Review, May-June 1993, pp. 9-11; The Journal of Historical Review, March- April 1995, p. 16.
"Keine Vergasung in Dachau," Die Zeit (Hamburg), August 19, 1960. Facsimile reprint, and English-language translation, in The Journal of Historical Review, May-June 1993, p. 12.
Letters in Books & Bookmen (London), April 1975, p. 5, and in The Stars and Stripes (European edition), Jan. 24, 1993, p. 14. Wiesenthal's 1993 Stars and Stripes letter is reprinted in facsimile in The Journal of Historical Review, May-June 1993, p. 10.
Memorial Site Concentration Camp Dachau. Leaflet published by the International Dachau-Committee (Dachau, Germany), no date.
著者について
ハーバード大学で学んだセオドア・J・オキーフは、歴史や政治に関する多数の論文、エッセイ、評論を発表している。数年にわたり、歴史見直し研究所が発行する『歴史見直しジャーナル』の編集者を務めた。
この改訂・更新されたエッセイのオリジナル版は、1995年7月~8月の『The Journal of Historical Review』第15巻第4号、18~23ページに掲載されたのが最初である。
▲翻訳終了▲
という内容です。こうして、米軍に同行した『犯罪医師』であるチャールズ・ラーソンの話は、修正主義者たちに「都合の良いように」利用されてきたのですが、修正主義者たちの意に反して、ラーソン自身はガス室を否定してないことは上記で示したリンク先の記事にある通りです。
修正主義者たちは、一般に
毒ガスで殺されたとする検死報告が見当たらないこと。
ナチスドイツの強制収容所でユダヤ人が亡くなった理由のほとんどは、チフスなどの疫病か、餓死であって処刑は少なかったこと。
故に、定説で言われているほどナチスドイツは悪くなかったこと。
にしようとします。だから、ラーソンの話は非常に修正主義説にとっては都合がいいのです。だからこそ、都合の悪い、ラーソンが実はガス室を認めていたことを隠すのです。
しかし、私はオキーフの論文のようなのは、悪質だとは思うものの、西岡氏のようには明らかな捏造は行っていないので、西岡氏はそれ以上に悪質かもしれないと言っておきます。
で、ウィチタ・イーグルにはなんと書いてあったのか?
すでに記事の画像は示していますが、newspapers.com というサイトから見つけ出したのです。よくは知りませんが、多くの新聞を電子化、有料契約者が簡単に検索して読めるようにしてあるサイトです。記事中のテキストで検索できるところがミソで、調べたい記事に含まれるであろう文字列さえ想定できれば、いちいち何年何月の記事かすら先に調べる必要もありません。
しかし、有料契約はかなりお金がかかるので、私は契約して無料期間のうちに情報を取得して、すぐに解約しました。金額は「ゲッ!そんなに高いの?」という印象くらいしか覚えてませんけど(笑)。
では以下、当該記事のテキストを示します。テキストは以下画像から、Googleレンズで取得し、それをそのまま、生成AIのDeepSeekに入力して翻訳してもらうという方法で得たものです。若干の編集修正はしていますが、一文字たりとして追加も削除も変更もしていません。Googleレンズでは取得できなかったピリオドやカンマを追加した程度です。
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4C ウィチタ・イーグル 1980年4月1日(火)
収容所の環境がほとんどの収容者を死に至らしめた、と医師が語る
著ジェーン・フロアチンガー
スタッフライター
第二次世界大戦の終結時に、チャールズ・ラーソン博士はジョージ・パットン将軍の部隊と共に南ドイツに入った。その後数か月にわたり、彼は1日に最大100体の収容所犠牲者の遺体を大量埋葬地から掘り出し、検死を行った。
ワシントン州タコマの医師であるラーソン博士は、戦後のキャリアで「犯罪医」と呼ばれるようになった。その理由は、彼の医療探偵としての仕事にあった。彼は月曜日、ウィチタ州立大学で開催された、彼の名を冠した犯罪資料展示の記念式典に出席するため、ウィチタを訪れた。
ラーソン博士は、戦争体験について公に語ることはほとんどなかった。その理由の一つは、彼の検死結果が、ナチス収容所のユダヤ人の大多数がガス処刑、銃殺、または毒殺によって絶滅されたという広く信じられている説と矛盾していたためである。
「私たちが聞かされてきたのは、600万人のユダヤ人が絶滅されたということです。その一部はでっち上げです」とラーソン博士は語った。
ドイツが崩壊する中、収容所では残虐行為を隠蔽するために大量殺戮が行われたが、ほとんどの収容者は収容所の環境が原因で死亡したと彼は述べた。
戦争終結後、ラーソン博士は法医学病理学者として、ナチスの戦争犯罪を調査するために軍法務局に勤務した。彼はダッハウにドイツ軍が降伏してからわずか数時間後に到着した最初の病理学者だった。彼の調査は20以上の収容所に及んだ。
ラーソン博士は月曜日のインタビューで、確かに数十万、あるいは数百万のユダヤ人がナチスの手によって死亡したが、大多数は大量絶滅ではなく、彼らが置かれた環境が原因で死亡したと語った。
「彼らはこれらの人々を働かせて死に至らしめた」と彼は語った。ジャガイモの皮だけを与えられ、十分な衣服もなく、粗末な小屋に詰め込まれた彼らは、あらゆる既知の病気で死亡した。「ある収容所では、90%が結核で亡くなりました。それは小屋から小屋へと広がりました」と彼は説明した。
ラーソン博士によると、彼が勤務した南ドイツでは、検死の結果、ガス処刑や銃殺による死亡は稀だった。毒殺の事例は一度も発見されなかったという。
絶滅されたのは、働くことができない人々、末期患者、そして精神疾患を患った人々だったと彼は語った。
ダッハウにはガス室が存在したが、その存在はドイツで最も厳重に守られた秘密の一つだったと彼は述べた。収容所から5キロメートル以内に住む人々でさえ、その存在を知らなかった。壁、有刺鉄線、犬、武装した警備員により、誰も脱走してそのことを語ることはできなかった。
「私は、ドイツ国民は誰よりも驚いたと思います」と彼は語った。「それはドイツ国民を弁明するものではありません。彼らはヒトラーを支持し、彼に従いました」
ラーソン博士は月曜日、ウィチタ州立大学のミルトン・ヘルパーン国際法科学センターで開催された「チャールズ・P・ラーソン アメリカ犯罪と法医学問題アーカイブ」の記念式典に出席した。
この記録は、ジョン・ウェイン・ゲイシーによる33人の若い男性の殺害や、チャールズ・マンソンの「家族」による女優シャロン・テートの殺害を含む、数百件の主要なアメリカの犯罪を文書化している。
このコレクションは、植民地時代以来の犯罪や災害に関する書籍、報告書、新聞記事、写真、オーディオテープ、ビデオテープで構成されている。
ラーソン博士は、今夜、セジウィック郡医師会で、ナチス戦争犯罪調査官としての経験について講演する予定である。
強調した部分で、「ラーソン博士は、戦争体験について公に語ることはほとんどなかった」とは書いてありますが、その理由は口止めされていたからなどとは書いておらず、「彼の検死結果が、ナチス収容所のユダヤ人の大多数がガス処刑、銃殺、または毒殺によって絶滅されたという広く信じられている説と矛盾していたためである」とあるだけです。
そもそも、ラーソン博士の従軍した地域は、米軍占領地域の南ドイツでしかなく、また、あくまでも戦後の話です。これらの地域で、ガス処刑遺体が検死報告とともに発見されていたという報告は、現在まで一切ありません。青酸ガスや一酸化炭素ガスで大量処刑が行われたのは、そのほとんどがソ連が占領した地域であって、そのソ連がガス処刑遺体を報告したとして知られているのは、たったの二例しかありません。
何故そんなに少ないのか? については、
ガス処刑遺体の多くは、処刑後、火葬されてしまった為、そもそも遺体が存在せず、法医学的検査は不可能だった。
埋葬遺体もあったと推定されるが、上記のクラスノダールで発見された遺体はおそらく冬季を経ていた為保存状態がよく、法医学的検査で一酸化炭素中毒死が判定できたからと推測される。それ以外の埋葬遺体は、腐敗が進んで検査自体が不可能か、あるいは毒ガス処刑まではわからない状態だった。
からだと考えられます。特にアウシュヴィッツでは、解放前年の1944年11月初頭にはガス処刑は中止されており、ガス処刑遺体はすぐ火葬されたのですから、ガス処刑遺体が発見されること自体があり得ません。さらに、いわゆるラインハルト作戦収容所(マイダネクを除く)では、それよりさらに前に収容所が解体撤去されており、火葬及び埋葬によりこれもガス処刑遺体が発見さることはあり得なかった。ヘウムノ収容所も同様です。さらに補足する点としては、
マイダネクについては、報告書自体の記載内容が全般的に信憑性が低いように感じられ、さらには「収容所の敷地内で一酸化炭素中毒の特徴的な症状を示す多数の死体が発見された」としか書いておらず、他は証言があるのみで、この程度では、本当にガス処刑死体があったのかどうか、認定しがたい。さらに、マイダネクでは1944年7月のソ連による解放よりもずっと前にガス処刑は終わっていたとする情報もあり、矛盾している為、信用し難い。ただし、定説的にはマイダネクのガス処刑そのものは否定されていない。
さて、いずれにしても、たったの二例しかないガス処刑遺体の発見報告ですし、いずれもソ連のものでしかなく、それ以外は全く知られていないというのは実際のところ、単なる歴史的常識でしかないのです。西側、特にアメリカはガス処刑遺体など全く発見していません。
なのに、口止め? なんのために? 意味不明としか言いようがありません。少なくとも、ホロコーストを扱う歴史学者ならそんなの誰でも知ってる知識でしかありません。戦後すぐだから口止めされたという話? それもあり得ません。よく考えて欲しいのですが、口止めということは、ガス処刑をあったことにしたいという、つまりガス処刑があったことを捏造したってことです。だったら、逆にガス処刑の検死報告を捏造するのではないのでしょうか?。
ようするに、「口止め」それ自体がメチャクチャな話なのです。ガス処刑が捏造なら大いに捏造案件を実行したはずです。実際、アウシュヴィッツの第一ガス室は捏造だと修正主義者たちは主張しているじゃないですか。ダッハウのガス室だって、捏造だと主張し、以下のような話まで修正主義者はせっせと捏造してまで、捏造案件の一つだと言ってます。
収容所にはガス室が必要だったが、ガス室が存在しなかった為、シャワー室をガス室だったように捏造する事が決定された。
シュトラウス大尉 (アメリカ陸軍) と囚人たちは作業に取り掛かかった。 以前は、約4フィートの高さの敷石が敷かれていた。
隣の乾燥室にあった同様の敷石が取り除かれ、シャワー室の敷石の上に敷かれ、この2列目の敷石の最上部に、鉄製の漏斗 (ガスの入口) が入った新しい低い天井が作られた。
この件は是非ご自身で調べていただきたいので、私からの説明は省きたいと思いますが、そんな事実はこの文章以外では全く確認できません。しかもこれが書いてあったニュージャージー州のCommon Senceという半月刊誌の媒体が冊子なのか雑誌なのか新聞なのかは知りませんが、なんとダッハウの火葬場まで戦後の捏造だと書いてあるのです。これもご自身で是非調べて欲しいので説明は省きますが、そんなわけ絶対にありません。ようするにこれ、全くの嘘話なのです。
しかし、この嘘記事で書かれているように、もしガス処刑が捏造ならば、検死報告も捏造されたに違いないのです。誰がどう考えてもガス室を捏造するよりもよっぽど簡単です。ヒトラーの命令書と同じ話で、ホロコーストが捏造なら、命令書は捏造されていなければおかしいのです。
結局、ラーソン博士が口止めされていたというのは、西岡氏の極めて浅はかさな修正主義者の考え方が生み出した全く馬鹿馬鹿しい稚拙な嘘でしかない、というのが私の結論です。
で、西岡昌紀は結局は何と言っているのか?
自分でそう言ったくせに、それが書いてあったのはウィチタ・イーグルではなかったと言い出しました。マッカラムのCrime Doctorの方なんですって。
彼はいまだに、現在では様々な情報がネットで簡単に得られるようになっている世界に生きていないようです。たぶん、ウィチタ・イーグルの時も、そんな地方紙が読めるわけないとたかを括ってたのだろうし、クライムドクターも同じなのでしょう。でも、舐めんなよ、と(笑)
これも西岡はきっとそう言い訳するだろうと思って、先回りして、ざっと目を通してから、テキストを細切れに生成AIにぶち込んで、報告してもらいましたが、西岡の主張するような「口止め」の件など書いてないそうです。この際、これも翻訳公開しようと計画中ですけど。でももう馬鹿馬鹿しくてやらない可能性大。誰かやりません?(笑)
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私はただただ呆れ返るだけです😮💨
ともかく、西岡は昔からずっとこの調子です。たとえば、こんな記事があります。
これに書いてあるコッホの件が、ラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の初版、つまり1961年版に書いてあったんですって。どういうことかといえば、この初版とやら、容易には確認できないんです。日本語版はその後の改訂版になっており、日本語版では無理です。とすると、日本であるならば、それが所蔵されている図書館に行かねばなりません。私も、それが所蔵されている図書館までは突き止めていますが、なかなかそう簡単には行けるものではありません。
ですが、国会図書館は、ついにpdfファイル送付サービスを開始することになりました。
やってみようかなと思ってます。西岡本にはこうあります。
注40 ドイツが、収容所の被収容者に対する虐待を理由にドイツ人に処罰を与えていたことは、「定説」側の重鎮ラウル・ヒルバーグ(Raul Hilberg)も認めている。R.Hilberg "The Destruction of the European Jews"(Quadrangle Books Chicago,1961), pp.578-579
ただ、問題は西岡さんはまともに脚注を書いてないことがしばしばあるので、「ページ数間違えました」っつー言い訳の余地を残してしまうからなあ(笑)
結論
西岡昌紀氏は嘘つきでした。理由は以上のとおりです。以上。