使命…というほど重くはないが、大切にしていること。
学校への訪問で……
現場の子どもさんたちによく言って聞かせている言葉なんですけれど……
目が見える。
耳が聞こえる。
声が出る。
言葉が喋れる。
自然に心臓が動く。
自然に呼吸ができる。
読むこと、書くことができる。
計算ができる。
明るく元気な気持ちでいられる。
身体の具合を気にせず、なんでも安心して食べられる。
手足が自由に動かせる。
立って歩いたり走ったりできる。
毎晩よく眠れる……
などなどなど……
私たちは、自分のことを考える時、自分の『できる』にマルをつけて安心を得ています。
病気や怪我などになったりして
『できる』にバツがついたとき……
つまり、ある時まで当たり前にできていた事が『できなく』なった後のことは、あまり考えません。
または、自分の『できる』にマルをつけた時……世界のどこかに必ず、自分なら当たり前にできることが
『できない』
という人も、きっといるはずだ。ということは、
あまり考えたりしません。
世の中には、いろんな『自分とは違う人』が……たくさんいるんだよ。
という話を、講話のどこかに必ず挟むように心がけています。
福祉の授業…講話の場面で大切なことは……
とりわけても特に、小さな子どもさんに向けた講話で大切なことは……
個別の障害それぞれの特性について、細かく教えるよりも、まずは、
『人はみんな違う』
『自分の《あたりまえ》と、誰かの《あたりまえ》は違う』
ということを、しっかり理解してもらうことなのだと、私は考えます。
普通校……つまり、一般の小学校や中学校の教室では、同じ年齢の子どもさんが集められていますし、
個々人の価値観や、能力の差は、まだそれほど開いてはおりません。
その中の何人かは、ちょっと身体が大きかったり、また小さかったり、
勉強が他の子よりもよくできたり、またできなかったりと……極端な特性を見せる子もいますが……大体の子はみんな、一律で横並び。
こういった教室では
『自分ができることはみんなができる』
『自分が考えることは、みんなも考えている』
つまり……みんなが同じなんだ。というふうに、誤認してしまいがちになるのです。
確かに『平等』で『公平』であることは、社会の中で、美徳として捉えられるものではあるけれども……。
そもそも人は、みんなが違うものなのです。
それぞれの『違い』
というものを、正しく認識し、確かに認めあった上で……
誰もが同じ場にいることができて、同じ機会が与えられてこその
『真の平等』であり『真の公平』
なのだと私は考えるのです。
『同じ技能が身についていなければ、平等ではいられない』
『みんなが同じ考えでなければ、平等ではいられない』
『技能や思考が同じでなければ、仲間とは言えない』……
……こうした認識の誤りが、長じた後での差別や偏見の種子を育む土壌となり、
極端な場合では、それが他者への攻撃性に繋がるのでは……と私は考えているのです。
人は誰しも、誰かを差別し、誰かに対して偏見を持つ……手前勝手な思い込みからは逃がれられない……心弱き存在です。
また、人それぞれに内心の自由、思考の自由がある限り、あれに対して差別をするな。これに関して偏見を持つな。ということを強制するのも難しいでしょう。
一人ひとりの中にある、差別や偏見の心……
それ自体を無くすことは不可能であっても……
せめて、子どもさんたちの中にある、諸々の負の感情が……
『他者への攻撃性』
という形で表面に出て、他の誰かを傷つけたりするようなことは……
私たち年長者……大人の責任として、可能な限り、最大限に、これを防いでいかなくてはならないだろう。と考えます。
『違いがあっても、互いを認め、共にいる』
この理念を、できる限りわかりやすく、伝わりやすい形で、子どもさんたちに届けていくことが……
障害当事者の講話者である私の、一番大きな仕事だと思っています。