【エッセイ】 #9 遠藤周作に学ぶ、どうしようもない夜の過ごし方
張り詰めた糸が、プツンと切れた。
そうやって職場に顔を出さなくなった人を度々見かけてきた。
真面目そうにしていたあの人。
いつも笑顔でいたあの人。
張り詰めた糸は、緩められなかったのだろうか。
そんな当たり前でしょうもないことを考えてしまう夜が誰にでもあるのではないだろうか。
今回は人生にたびたび訪れる、どうしようもない夜に読み流して欲しいようなことを書いてみる。
どうしようもない夜に読んでみる本
遠藤周作 の「眠れぬ夜に読む本」という作品がある。
この作品の冒頭「生と死について考える」という章で、遠藤周作はキューブラー・ロス というベストセラー作家を取り上げている。
そこで紹介される一節が、何とも印象的だった。
キューブラー・ロス という人は医者で、2500人もの蘇生者にインタビューを行い、もう一つの世界が死後に存在することを確信してるとのことだ。
そんな確信から生まれる言葉の美しさに感動すら覚えた。
なぜ遠藤周作は眠れぬ夜に読む本に、この題材を選んだのか。
遠藤周作が作品を書いたのは還暦を迎えたあたりとの記載がある。
おそらくだが、遠藤周作にとってもある種”悟り”に至った面もあるのかもしれない。人は死に近づくと一種のどうしようもなさを覚えていくのではないだろうか。
そして遠藤周作はキューブラー・ロスの話の後に、「生命は宇宙からきた」という話について書き始める。中々に壮大である。
遠藤周作がこの文章を書いた時の気持ちは詳細にはわからないが、確かに思えたのは、どうしようもない夜には自分もよく生と死を考える、ということだ。
「自分は死んだらどうなるのだろうか」
「死んだら結局何もない空白の世界なのだろうか」
「自分が人間として生まれる確率なんて0に近いんだろうな」
そんなことを考えていくと、この世界はどうしてもちっぽけなものに見えてくる。実際、今生きている自分の人生もおそらく宇宙・地球の歴史上では豆粒にも満たないものなのだ。
そうすると、どうしようもないと思っていたことが別の意味で本当にどうしようもないと思えてくるのだ。
ストレスを感じるどうしようもなさ、ではなく
胸のすくような浮遊感が生まれる、どうしようもなさである。
不思議と宙に浮いたようなどうしようもなさは、夜との相性がいい。この世に存在するのは自分だけではないかという錯覚すら覚える。
それがいい。どうしようもない夜は、人生の無常さと宇宙の偉大さに身を任せてみるくらいがちょうどいいのだ。
あの遠藤周作だって、人生の晩年には誰も知り得ない世界に想いを巡らせたのだ。
職場のあの人、あの時の、あの言葉。
どうしようもない夜は、そんな地に足のついた世界から離れて空中浮遊して物思いに耽ってみよう。
そんな、どうしようもない夜のすゝめです。
どうかみなさん、良い夜を。おやすみなさい。