盆によせて

お盆がやってくる。
仕事にお盆は関係ないので、親戚・家族に会ったり、お墓参りには行くことができない。
学生の頃は、「お盆」という概念が全くなかったので、目いっぱいバイトを入れていたと思う。

母が亡くなってから、お盆はお盆になった。
母がこの世に帰ってきている気がするようになった。
盆踊りでトランスに入ることが、冥界とつながる入口のようにも感じられた。
お盆がお盆になったことにより、お盆が近づくと少し、ナーバスになる。

でも、年を経るごとに、亡くなった母との折り合いも少しずつつくものだとも考えられるようになった。
母が亡くなってすぐは、他人の母娘を見るのも嫌だった。他人の母の話を聞くのも嫌だった。他人の母に対する愚痴を聞くのはもっと嫌だった。母の日も嫌だった。
母が亡くなって8年目になる今年、もうそこまでのジェラシーはたぶんない。

ゴスペルを習い始めて1年半ほどになる。
仏教徒のわたしだけれども、ゴスペルは歌える。ゴスペルは聖書の言葉が基本にある。時々、神はなんだろうかと考える。歌詞に出てくるGod / He / Lord。文字通り神なんだろう。でも時々、その「神」を故人にしてみたり、自分にしてみたりする。そしたらまた、気持ちが少し変わる。ゴスペルは神に対して歌う歌と言われる。だから、ステージなんかではおのずと空を見る。もちろん会場に母は来てくれない。今まで、ありとあらゆる発表会に来てくれた母は会場に来てくれない。でも、空を見れば、やっぱりいてくれる気がする。

母の母が亡くなったとき、玄関先に蝶がやってきて、
「おばあちゃんだね」なんて母か誰かが言ったから、
仕事をしているときも、蝶を見れば、
「ああ、来たな」と思う。

話しは変わる。
わたしの彼は鹿を捌く。見事な手つきで一個体が肉片に、おかしな話だけれど、きれいな肉片にしていく。
それだけのことだ、と思う。
生まれて死んだんだ。
どんな原因であれ、生まれたから死んだんだ。
母が亡くなったことは、わたしに大きな悔いを残した。もっと優しくしたかった。だけど、8年の時を経て、少なくとも、「死」が永遠(の別れ)とはあまり感じなくなったのかもしれない。

そうなっただけのこと。
そして、今もどこかできっとわたしを見てる。

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