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『木を植えた男』とマスター

『木を植えた男』 という絵本をご存じだろうか。

1931年、フランス・プロヴァンスの荒れ果てた山岳地帯で、一人の寡黙な男が、来る日も来る日も木を植える。その様子を偶然出会った男の視点で描いている。

3年前からこの荒地に、かれは木を植え続けているのだという。
まずは10万個の種を植え、そのうち2万個が芽を出した。
その半分ちかくが、やがてだめになるだろう、とかれは見こんだ。
動物にかじられるか、予期せぬことが起こるかして。
それでも、のこる1万本のカシワの木が、そこに根付くことになる。
ほとんど不毛の地だというのに。

『木を植えた男』(ジャン・ジオノ作 フレデリック・バック画 寺岡譲訳、あすなろ書房、1989年)

もう誰も住んでいないその地は、戦争で炭を作るために禿山となり、人々は苦しい労働と貧しい生活で心がすさび、争いも絶えなかった。
男は妻子をなくし、孤独に引きこもるなら何かためになることをしようと、途方もない作業を何十年と続けたことで、緑が再生を遂げる。人々はまた集まり、笑い声の絶えない土地となった、という物語。


学生時代に読んで、自分の命をこんな風に使えたらどんなにいいだろう思った。
でも、なかなか難しい。できると思えない。

そう思ってから、ふと、身近にその偉業を成し遂げている、いや、遂行している真っ最中の人がいることに気づいた。
私が学生の頃アルバイトをしていた、東京都新宿区・東西線早稲田駅すぐ近くの「café GOTO」のマスターだ。

学生街に開業してから30年以上、毎日、コーヒーや紅茶、前職の仏料理人時代の腕を奮ったケーキを提供している。1番人気のチーズケーキに、しっかり焼き込んだ洋梨や杏のフラン。20〜30種類のレパートリーがあり、どれも絶品だ。

内装や食器ももこだわりが詰まっている。
赤いビロード張りの椅子と、年季の入った分厚い木のテーブル。ウェッジウッドやマイセンのカップを惜しげもなく使い、マスターが集めた絵画や切り絵の作品が壁や棚に飾られている。
落ち着いた喫茶店らしい雰囲気と、確かな味が評判で、毎月雑誌の取材がある人気店だ。

働きながら店内の様子を見ていると、お客さんは思い思いに充実した時間を過ごしており、確かに生活の一コマに幸せを届けていると感じていた。

特に感動するのは昔通っていたお客さんが再訪してくださる時で、学生だった頃から月日が過ぎ、お子さんと一緒にいらしたりするのだ。
マスターは「はいはい、ありがとうございます。」といつものことのように返していたが、普通の飲食店では滅多にないことだ。

店内を見渡しても、カウンター上の壁にびっしりと張られているハガキは、世界各地に旅立ったお客さんからのお便りだし、節目にはどなたかが花をくださるので、飾る用の花瓶もたくさん並べられている。
そこまで愛され続けるのは、実直な仕事ぶりの賜物だと思う。

「お店を畳むのは死ぬ時だ」というマスターでも、時々、しがない、とか、向いてないとか、ぼやいていることがあった。
そんな時は、最大級の敬意を込めて「マスターは木を植えた男なんですよ」と言っていた。なんとなく通じていた気がする。

身内贔屓を引いても「ゴトー」より美味しいケーキには出会わないと思うし、マスターの偉業を垣間見て、自分も毎日頑張っていこうと思える。
これからのお店も、きっと、たくさんの人から愛され続けると思う。

カフェゴトーにて。手前から、杏のフラン、ブドウのタルト、チョコケーキ、木苺のクランブルチーズケーキ。季節ごとにかわります。

#このお店が好きなわけ

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