敵は味方であり、味方は敵である
忙しく騒々しい現代社会において、私たちは毎日色々な人とオンラインとオフラインで顔を合わせるわけですが、その時にお互いに垣間見るのはその人のその時の一瞬の側面のみです。
にもかかわらず、私たちは、その一瞬の側面のみを根拠に、その人を決めつける傾向があるように感じます。
しかし、そうした相手が、別の人たちと出会ったり別の場面に遭遇すると、全く異なる様子を示す事はごく自然にあることです。仏教の縁起の考え方で言えば、私たちはすべてのものとの関係性において生かされているわけで、関係性において変容し、様々な様子を見せる事はある意味普通のことなのです。
こんなことがありました。私はある生徒にとても大事なことを頼みました。今、日本から生徒たちがやってきており、その生徒のうちの1人の面倒を見る世話係(バディ)をお願いしたのです。しかし、私にはその生徒はその大事なことをやろうとせず、日本の生徒をほったらかしにしているように見えたのです。いや、やろうとしたのですができなかったと言ったほうがいいかもしれません。しかし一方で、その生徒は、別なことも他の人から頼まれており、そのことに関しては、しっかりやっていたのです。
この出来事は、私にとっては一瞬イライラする出来事でしたが、このことは、関係性によって、人間は変わるものであると言うことを示す一例だったと思うのです。私がイライラしたのは、関係性からその生徒を切り離し、その生徒を「裏切り者」とレッテル張りをしたためだったと思います。言い方を変えると、自分の中に、「味方」と「裏切り者」を切り離して対立させる二元的な人間の捉え方があったからだと言えると思います。
さらに言えば、私は、そもそも人間が二元的な関係性の中で存在している生き物だと言うことを忘れていたのです。
コメディアンであり映画監督でもあるエミリーディバインさん(Emily Levine)がおっしゃっているように、素粒子物理学の世界では、すべてのものを構成している粒は同時に波でもあり、波は同時に粒であるわけです。つまり、すべての根本は、2つの一見相反するのものが統合して存在しているのです。そして、これは私たちの人生の縮図であるということです。
人間関係においても同じことで、日常感覚では、自分にとって「味方」と捉えられることができる相手は、同時に「敵」と捉えることができる存在でもあるわけです。一方で、「敵」と捉えることができる相手は、同時に「味方」と捉えることができる存在でもあるわけです。
私は、「敵」と捉えたその生徒のおかげで、その生徒との関係性ができていなかったことが見え、生徒との関係性を作り上げることの未熟さを思い知らされました。そして、自分は自分の思い込みや期待だけで、その生徒にお願いをしていたことが見えてきました。つまり、一人一人が全く異なった価値観を持っており、私の中で大切だと思う価値観は相手にとって必ずしも大切であるとは限らないということを忘れていたのです。これは、今後様々な生徒たちとの関係性を深め、さらには、自分を教師として成長させる上で、この上ない貴重な機会になりました。そのようなきっかけを与えてくれるその生徒は、私にとってはもはや「敵」でも「裏切り者」でもありませんでした。
私は、その生徒と対話を試みました。すると、その子は別に日本の生徒をほったらかしにしたのではなく、コミニケーションを試みようとしたのですが、その日本の生徒がいつも疲れたような様子だったので、自然と距離を置くようになったと言う事だったのです。それは、疲れている生徒を無理矢理引っ張り回したくないと言う、その子なりの優しさだったかもしれないと思えてきました。あるいは、どうしてしたらいいかわからないと言うその子なりの戸惑いや悲しさがそこにあったのかもしれないなぁとわかりました。
その後、その2人の生徒は、ラグビーのワークショップにおいて、一緒にボールを遊びをしながら楽しんでいる様子でした。
しかし、私はその2人の様子を24時間観察できるわけではないので、当然一緒に楽しむ場面と、楽しくない場面の両方をその2人は体験すると思います。でも、私たちは先ほど述べたように関係性の中で生きています。その関係性が、ポジティブに感じられるものであっても、ネガティブに感じられるものであっても、その中で私たちは生きているので、どんな体験になっても、それは貴重な体験なのだと思いました。
10数年前に2つの異なった国で生まれた2人の生徒が、オーストラリアのとある小学校で出会ったそのこと自体が奇跡であり、その奇跡的な出会いによって、2人は人生の縮図とも言うべき、ポジティブとネガティブの関係性の中で様々なことを学ぶ機会を得られたのだと思いました。
オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏