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【本質観取レポ】迷惑とは何か? - その本質に迫る!



迷惑の文化的相対性と普遍性:哲学的考察


昨日、苫野一徳氏主催の「本質観取の会」に参加し、「迷惑とは何か」というテーマについて深く考える機会を得ました。現象学的アプローチを用いて、日常的に使用される「迷惑」という概念の本質に迫ろうとする試みは、予想以上に興味深い発見をもたらしてくれました。

文化による「迷惑」の解釈の違い

私の経験から、「迷惑」という概念は文化によって大きく異なることがわかりました。まるで万華鏡のように、視点を変えると全く異なる様相を見せるのです。例えば:

1. 自然との共生:

  オーストラリアの広大なハイウェイを走っていると、突然カンガルーや羊の群れが道を横切ることがあります。都会育ちの私にとってはこれが「迷惑」に感じられましたが、現地では自然と共生する当たり前の光景なのです。


2. 食事マナー:

  日本では麺類をすすって食べることは普通ですが、オーストラリアでは不快感を与える行為とされます。これは、まさに文化の違いが「迷惑」の定義を左右する典型的な例といえるでしょう。


3. インフラの違い:

  ワイフの母国であるコロンビアでの経験は、「迷惑」が時に文化というよりもインフラの違いから生じることを教えてくれました。日本では当たり前のようにトイレットペーパーを流せますが、コロンビアではそれが大きな問題を引き起こしてしまいます。私は知らずにペーパーを流してしまい、トイレの交換工事という大きな迷惑をかけてしまいました。これは、私たちが「当たり前」と思っている行動が、異なる環境では思わぬ問題を引き起こす好例といえるでしょう。


4. 公共空間での振る舞い:

  空港での会話の音量一つとっても、文化による認識の違いが顕著です。オーストラリアの観光客にとって普通の会話音量が、日本の空港では大声に聞こえてしまうように。


「迷惑」の階層性

「迷惑」という概念は、氷山のように表面に見える部分と、水面下に隠れた部分があります。私の観察では、以下の3層構造で捉えることができます:

1. 法的規制レベル:

  - 駐車違反
  - 公共場所での喫煙
  - 深夜の暴走行為

2. 社会的規範レベル:

  - パニック買いによる品不足
  - 公共交通機関での大きな荷物の持ち込み
  - 公共施設の独占的使用

3. 感覚的不快レベル:

  - 公共の場での化粧
  - 過度の愛情表現
  - 周囲への配慮を欠いた行動
(参考文献•北折充隆「迷惑行為はなぜ無くならないのか」光文社新書)

迷惑と関係性

映画「男はつらいよ」の寅さんの例が示すように、関係性の深さによって「迷惑」の受け止め方は大きく変わります。寅さんがいかに騒動を起こしても、家族や街の仲間は「バカだねえ」「相変わらずだね」と言って、寅さんを受け入れているのです。これは、迷惑という概念が単なる行為の是非ではなく、人々の関係性や文脈に深く根ざしていることを示唆しています。深い関係性が築けている場合には、迷惑と感じにくくなるのかもしれません。


建設的な対応に向けて


「迷惑」という言葉に依存せず、より具体的な感情や要求を表現することで、建設的な対話が可能になるかもしれません。例えば:
- 「困っています」
- 「不安を感じます」
- 「こうしていただけると助かります」

このように、「迷惑」という言葉を超えて、より豊かな表現を用いることで、「思考停止」「紋切り型の他者批判」を超えて、相互理解と問題解決への道が開けるのではないでしょうか。

「迷惑」の本質に迫る

浮かび上がってきた「迷惑」の本質は、「他者の意思や行動をコントロールできない状況に対する不全感」といえるかもしれません。これは、まるで砂時計から流れ落ちる砂のように、どうすることもできない状況に対するもどかしさやイライラ感として表出するのです。

「迷惑」の本質定義


本質観取の会での議論と私自身の経験を踏まえると、迷惑とは「深い関係性を築けていない相手が、自分の自由を脅かしてきたと思ったとき、その相手の意思をコントロールできない自分、コントロールできないことのもどかしさやイライラ感」にその本質があるように思われます。


この定義は、文化や状況を超えて、人間の基本的な感情と深く結びついているのではないでしょうか。


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おまけ(めいわ句集)


その他の続きや感想を以下にまとめてみました。もしご迷惑でなければご覧ください。

日本の中学生がオーストラリアに修学旅行でやってきたときに、普通にくしゃみをしたらコアラのか係員のおじさんにひどく怒られていました。オーストラリアのくしゃみと比べたら叫び声のように聞こえたようです。コアラが結果的にかなり驚いてしまったようです。
日本人ということで、こちらを食べる野蛮な側面があると言うふうに見られ、ちょっと嫌な目で見られることもありました。
義理チョコは、あげる方もらえる方も迷惑と感じる人もいるかもしれませんね。
SNSでバズるために公共の場であるにもかかわらず、他人の迷惑を顧みず、動画を取り続ける人って結構いますね。
日本の寿司レストランで迷惑動画を撮ったニュースはショッキングでした。
ルールやマナーを無視する事は、迷惑につながりやすいですね。
しかし、一方で、古い慣習などのルールは、逆に人の自由を奪ったり制限したりする迷惑なルールになったりすることもありますよね。
他者の為を持った利他的な行為であっても、ほんとにそれを相手が望んでいない場合、自分の自我に基づいてしまった場合、それはありがた迷惑になりますよね。
運転するときは運を天に任せてはいけませんね。
やはり迷惑行為と言うのは、他者への配慮が欠けていると思います。
テクノロジーは便利ですが、突然前触れもなく保存していたと思った共有シートが消えてしまうこともありました。そういった時も他者の迷惑にもならないように修復していくプレッシャーが生じますね。
他者に寛容になることによって、迷惑行為も迷惑にならないこともあるようですが、しかし、他者の自由を侵害する行為に関しては、むしろ積極的に法的に訴えることも重要な側面があると思います。
迷惑行為は指摘空間よりも公共の空間で起こることが多いと思います。公共性が維持されないとそれは迷惑行為のスタートになりますね。
受忍の限度は、人によって異なると思いますが、さすがに酔っ払いが10人絡んできたら大迷惑ですね。
日本でもオーストラリアでもカスタマーハラスメントが問題になっていますが、それには感情的に対応するのではなく、理性的に対応することが重要ですね。
映画館のおしゃべりは日本でもオーストラリアでも迷惑ですね。
授業中のおしゃべりは迷惑行為になったりしますが、それも1つのきっかけとしておしゃべりを対話による学習のエネルギーに変換していくことも、今教師に求められている力量の1つかもしれません。

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