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非合理といかに向き合うか?


はじめに


「人は語り続ける時、考えていない」の読書会に参加しました。今回の大きなテーマは「非合理な人」といかに向き合うかでした。

言い換えると自分を変えることが嫌いで、人とつながることに消極的で、対話の場に出たがらない人々といかに関係を作っていくかと言う話でした。

特に、自分の思想信条に絶対的な確信を持っている人たちと対話をする事は難しいわけで、そもそもそうした人々にとっては結論が先にあり、それを変えて合意していこうと言う前提がない時などには、ほんとに対話自体が成立せず難しいわけです。

異なった思想信条を持った人たちと合意できるか

しかし、たとえカルトと呼ばれるような人たちであっても、人間として共有できる思いや願いと言うものはあるわけで、そこを起点として、お互いに本質を見出していき、合意点を作り上げる事は可能なのではないかと言う話も出ました。カルトと言うのはレッテルであって、それを剥がせば人間なのですから。


オスロ会議で交わされたたった一つの約束

皆さんはオスロと言う映画をご覧になったことがありますか?これは歴史上ほんとにあった話を元にしています。昔イスラエルとパレスチナの代表がノルウェーの首都オスロに集まり、そこで停戦を合意したあの「オスロ合意」がどのような経緯で成立したかを克明に描いている映画です。実は先月私はノルウェーにいる娘に会いに行った際に、この映画の存在を知り、運良く帰りの飛行機の中で見ることができたのです。

非常に驚いたのは、このオセロ合意が達成されるまでの過程において、ファシリテーターから強調されたのが「家族」と言う概念でした。

例えば、会議中どんなに対立したとしても、会議が終わったら一緒に食事をして、その中で共に家族の話をすると言うことが唯一のルールとして決められたと言うのです。はじめはしぶしぶ家族の話をしていたメンバーも、やがて自分たちの家族のエピソードも含めて、豊かな会話ができるようになって関係を深めていくシーンが非常に印象的でした。

またそうではあっても数日後交渉が決裂し、参加メンバーが会場を去りかけたときに、ファシリテーターの女性が「こうしてる間にも私たちの家族が死んでおり、そこから目を背けてこの場を去ることはできない」と言うことを強調し、再び交渉が再開し、最終的にオスロ合意(停戦合意)に到達したと言う場面もありました。

今日家族も多様化していますが、家族には他のグループにはない特別な力学が働いています。そして特別な歴史と想いがあります。そうした家族を共通の土台として、政治的な対立を乗り越えた合意を形成していく事は非常に重要なメッセージを含んでいると思いました。


「合理的」の罠


「合理的」という言葉には魔力があると思います。つまり、合理的と言われると、何かそこには筋が通った。正しさがあり、逆らえないと思われるようなニュアンスを感じるのです。しかし、現象学的に言えば、私たちの認識は私たちの意識の外に出ることができず、合理的だといっても、それは自分の意識の中で知覚した合理に過ぎないと言うことです。言い換えると自分が合理だと思っても、他者にとっては合理だとは限らないわけで、だからこそ、粘り強く対話を繰り返し合意を作り上げていかなければならないと言うことが指摘されました。

ユーモアのパワー


そして、この本の第6章において、ユーモアが強調されていることが非常に印象的でした。この本は哲学の本ではありますが、ユーモアの話が出てくることで非常に新鮮に感じました。

この話を読んで「ユーモアは最強の武器である」と言う本にも書かれてあったアセアン会議(1998)のことが思い出されました。当時はミャンマーの情勢をめぐって、ロシアとアメリカが鋭く対立していました。展開によっては両国の戦争が起きるのではないかと言う懸念が広まっていました。しかしそんな中アセアン会議の夜に恒例の余興が開かれたと言うのです。

その余興では昼間は政治家として激しい議論をしていた彼ら彼女らが、何かステージの上で出し物をすることが決められていました。そしてその余興において、昼間は対立していたロシアの代表とアメリカの代表がデュエットすることになったのです。2人は負けず嫌いだったので、お互いに舞台裏で何度も何度も練習を繰り返し、結局ステージのパフォーマンスは大成功に終わったと言うのです。そしてその後2人は個人的にレストランに行って食事をする関係にもなったと言うのです。

そして、米露戦争は回避されたのでした。

こうしたアセアン会議では、過去において、韓国代表の方も、ABBAの派手な格好してパフォーマンスをしたり、ロシアのもう1人の代表もダースベイダーの格好をしたりしてパフォーマンスを展開し、大きな拍手喝采を浴びたと言うのです。

嘘のようですが、本当の話のようです。国際的な政治の対話の場においても、ユーモアの果たす力は想像以上のものがあり、侮れないことがわかります。ユーモアはそれまで見えなかった相手の側面を浮かび上がらせる力もあるようです。



そこで一句。

おわりに

自分と全く思想信条が異なる相手であっても、対話のテーブルに乗ってこないような相手であっても、同じ人として、主観の外に出られない限界性や弱さを持っている存在として、お互いに合意できる事は十分に可能であると言うことを再確認したいと思います。

対話のテーブルに乗ってもなくても、家族やユーモアのテーブルには乗ってこられるのではないか、人間としてに本性の領域のテーブルに着くことはできるのではないかと思いました。対話はそこからもう既に始まっているんだと思いました。


野中恒宏

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