スクールカーストvs 民主主義
インドでは1949年に法的に廃止されたカースト制度が、形を変えて学校のクラス内で存続しているというのは、何とも奇妙に感じられます。インドでも日本でも、人間を序列化し、ヒエラルキーの中に置くことは法的には禁止されています。しかし、現実には、そうしたピラミッド型の意識が未だに社会や個人の中に根強く残っているのはなぜでしょうか。
人々の意識は直接証明できない上、確認も難しいものです。それは、私たちが無意識に抱く「形而上学的なイメージ」によって、ある集団が他の集団よりも優れていると信じてしまう性質に起因しているのかもしれません。たとえそれが証明不可能であっても、こうしたイメージに従い、ある種の「超越的な存在」に服従してしまうという傾向が、文化を越えて存在しているように思います。
では、絶対的な正しさを持つ考えや、誰もが好感を抱く人物が存在すれば解決するのではないか、と思うかもしれません。しかし、私たち一人ひとりが異なる価値観や信念を持っているため、そんな考え方は原理的に不可能です。超越的なものを社会に持ち出すと、必ず賛成と反対が生まれ、対立が増えるでしょう。
クラスの中でも、ある特定の上下関係のイメージが固まると、それを破るのが難しくなり、違反すれば無視や嫌がらせを受けることがあります。また、現在の「クラス内カースト」に反旗を翻しても、新しい形のカーストが生まれるだけで、根本的な解決にはなりません。そのため、学校こそが民主主義を意識的に学び直す場であるべきだと強く感じます。
民主主義というと、多数決と同義と考える人が多いですが、絶対的な正義は存在しません。正義とは、究極的には人々がその都度合意した時にのみ成立するものです。合意のない正義は成り立ちません。したがって、民主主義は多数決ではなく、対話や議論を通して、全員が合意できる「一般意志」にこそ正当性があると、学校教育の段階でしっかり学ぶ必要があると考えます。
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