Big Talkは人生を豊かにする
多文化共生とか、多様な価値観の共生といった場合に、お互いにコミニケーションをすることが必要であると言う事は明らかでしょう。
しかし、とにかく言葉を交わせば多文化共生が自動的に起こると考えるのはちょっと非現実的かもしれません。
例えば、私が朝散歩するときにいろいろな人とすれ違いますが、その人たちと挨拶を交わしていますが、それは毎日繰り返しても、そこから多文化共生が生まれるとは思いません。
また、日本であっても、オーストラリアであっても、人々は毎日様々な会話を繰り広げていますが、仮にその会話が、天気の話や、ゴシップの話や、当たり障りのない世間話であったら、それは何万回繰り返しても、そこからは共生は生まれないんだと思います。
言い方を変えれば、何度スモールトークを繰り返しても、そこから人々が深いつながりを見出し、新しい価値を創造する事は絶望的だと思うのです。
スモールトークは、表面的であり、その会話の方向性が容易に前もって想像しやすい会話であると言えると思います。別の言い方をすれば、スモールトークは、既存の社会的常識や、社会理想主義をなぞっているだけであり、また、それに合わせて自分がかぶっているマスクから出ている言葉であり、それを何度繰り返しても、既存の支配的な価値観や考え方が、日常生活の場で再生産されるに過ぎないのではないかと思うのです。
「今日も暑くなりそうですね」とか、「昨日の事件にはびっくりしましたね」とか、「もうすぐ休みに入りますけど、どっかに行く予定がありますか」とか、「全く最近の子供たちには手を焼きますよね」とか、「芸能人の浮気が本当に腹が立ちますよね」とか、いくら言っても、そこには常に社会的常識のフィルターがかかっており、そこには唯一無二の自分の独特の考え方や見方は多い隠されているんじゃないかと思うのです。
もちろん、スモールトークによって、会話のきっかけを作り出したり、相手と最初のつながりをスタートさせる事は否定できません。いきなりスモールトークをとっぱらって、物事の本質的なところに迫るようなビックトークを始めてもなかなか関係を作れないかもしれません。だから、スモールトーク自体を否定するわけではありませんが、スモールトークだけでは、毎日の変わらぬ日常生活を再生産し、本当の自分を押し隠し、本当の自分に向き合って、抑圧からの解放や成長にはつながらないんだと思います。ひいては、社会の発展や変容には貢献できないんだと思います。
ビックトークとは、日常的にあまり考えない深い領域について考えることを促すトークであると思います。社会の枠を突き抜け、自分の殻さえも突き破り、非常に深いレベルで人々とつながる方向に進むトークだと思います。そして、それは、人生をより豊かにするために必要な問いを含んでいると思います。
例えば、「あなたにとって完璧な1日とはどういう1日ですか?」
「90歳まで生きられるとして、「死ぬまで30歳の肉体」で過ごすか、「死ぬまで30歳の精神」を保つかを選ぶなら、どちらがいいですか?」
「人生で最も感謝している事はなんですか?」
「これまでどんな人生を送ってきたかを4分間でできるだけ克明に教えてください」
「明日目が覚めたらある特定の能力が身に付いています。どんな能力を身に付けたいですか」
「これまでの人生で達成した1番の偉業はなんですか?」
「友人関係で最も大切にしていることはなんですか」
「これまでの人生でもっとも大切な思い出はなんですか」
「1年後に死ぬとしたら、あなたは生き方を変えますか、変えませんか。その理由はなんですか」
「相手の長所を5つ挙げてください。お互いに代わり番こにいましょう」
「母親との関係をどのように考えていますか」
「△△について話し合える人がいればいいな」という文を完成させてください」
「もしも、今話している相手とより深い関係になるとして、あなたについて相手が知っておくべき重要なことは何ですか?」
「恥ずかしかった体験を相手に話してみてください」
「今夜ひっそり死んでいくとしたら、誰に何を伝えたいですか」
(DaiGo「超人脈術」より)
などなどです。どれも、日常生活の枠組みを超えた深い領域へと促す力を持っている問いだと思います。
こうした問いをすることによって、自分や他者の人生に真剣に向き合うことによって、初めて私たちは自分や他者や人生や社会や世界に関わる重要なことが見えてくるんだと思います。すべては見えないかもしれませんが、大切な出発点になるんだと思います。
そして、そこが基盤になって、より豊かな人生や社会を作り上げていくための創造性の燃料になるんじゃないかと思うのです。
「確かにそうかもしれないけど、初対面の人とか、普段あまり知らない人に、そんな深い話をしても相手は引くだけなんじゃないかな。もっと関係を作ってからでないと、こういったビックトークができないよ」
と言う声が聞こえてきそうですが、私は必ずしもそうだとは思いません。
アメリカに住むごく普通の女子大生だったカリーナさんが、毎日の生活の中で非常に疎外感というか孤独感を感じていました。彼女は、人々ともっと深いつながりを持ちたいと常日頃思っていました。彼女は、ある日そんな自分の思いにまっすぐ向き合い、ビデオカメラを片手に、街に飛び出したのです。そして、1度も会ったことのない人たちに向かって「死ぬ前にどんなことをしてみたいですか」と言う問いを投げかけてみたのです。
その時にどんなことが起きたか。どうぞこの動画をご覧ください。
なんと、少なくない人々が、彼女からの問いかけに対して真剣に答えてくれたのです。中には目に涙を浮かべて、深く内省し、人生をより豊かにするきっかけを得た人すらいたのです。
この動画は、ある意味衝撃的です。涙が出てきます。日頃私たちの多くがいかにスモールトークでごまかして生きているか、あるいはスモールトークがいかに本当の自分の思いを覆い隠しているのかということも見えてきたように思います。人々はもっとビックトークがしたいのだと私は思いました。
「確かに凄い動画だけど、それはアメリカだからだよ。欧米人は初対面だろうと男だろうと日本人に比べて自由に語るような文化があるんじゃないか。日本人はこうもいかないんじゃないか」
と言う声が聞こえてきそうです。しかし、これに関しても私は違う考え方を持っています。
なぜなら、私はZoom等のコミニケーションツールを通じて、毎回1度も会ったこともないような新しい人と出会っていますが、そうした人たちとビックトークをする事は珍しいことではありません。エッセンシャルマネジメントスクール(EMS)においても、U理論の日本人のコミュニティでも、zoom革命共創サロンにおいても、ビックトークは日常的に展開されています。
以前私は「ビックトークカフェ」と言うオンラインのコミュニティーを運営しており、そこで毎週、「愛とは何か」とか、「幸せとは何か」とか、日常生活ではあまり真剣に向き合う機会の少ない内容について、実に多くの初対面の方々と語り合ったことがあります。その参加者の大半は日本人でしたが、どの方もビックトークをされていらっしゃいました。
日本の歴史を振り返ってみても、お互いの内面を深く内省し、それを短歌や俳句や詩などにして交換したりしながら、独特の形でビックトークを楽しむ文化があったと言えるのかもしれません。
私たちは本当はビックトークがしたいのです。
ビックトークを通して、自分や社会の殻を突き破って、物事の本質を知りたいのです。スモールトークや言い訳でいっぱいの日常生活にうんざりしているのです。そして、人生をより豊かにしたいのです。さらには、より新しい世界を創造したいのです。
さあ、ビックトークを始めてみませんか。まずは身近にいる人に声をかけてみましょう。友人でも、家族でも、偶然そこにいる人でもいいと思います。
オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏