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どのように「ふれる」か
言葉には〈身体性〉があるようです。
例えば、ある人の言葉が自分の心を優しく触れてくれたような包んでくれたような感覚になった事はありませんかまたある人の言葉が妙に気に触ったり、まるで手で押されて拒絶されたかのような感覚になった事はありませんか
このように言葉と言うのは、〈身体性〉を持つ側面があるようなのです。
鷲田清一さんの「聴くことの力」によると、言葉には「さわる」側面と「ふれる」側面があるようです。
私の言葉でまとめると、前者の「さわる」言葉には、他者に対して一方的に無配慮に接触すると言う意味合いがあり、そこには一体感や相互浸透性はなく、分離にもつながる境界線がそこには横たわっているようです。
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一方で、「ふれる」言葉は、一方的に相手に接触するのではなく、配慮ある一体感というか相互浸透性がそこにあるようです。ちょうどお母さんが赤ちゃんに対して優しく触れるような感じでしょうか。
しかし、ここで注意が必要なのは、たとえ相手に配慮した「ふれる」言葉を投げかけて共振しようとしたとしても、2人の関係性において〈間(ま)〉によっては、逆に反発を食らうこともあると言うことです。
つまり、先ほどの「聴くことの力」によれば、私たちの意識の中には、母親の体内の中にいたときの「音響の外皮」ともいうべき、デリケートな幕がいまだにあると言うのです。すなわち、母親の胎内にいた時に、母親の声や外界の音に共鳴していた一体感を象徴する〈膜〉があると言うのです。しかし、他者から不用意に「さわられ」たり、ものすごく近い〈間〉で「ふれられ」たり、相手の言葉の間から漏れ出てくる「きめ(声の調子、抑揚など非言語の部分)」を受け入れられないと、その〈膜〉が破られ一体感が破壊される危機を感じ、それを防ぐために反発や抵抗が生まれたりすると言うのです。気が「ふれる」状態と言えるかもしれません。
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しかし、お互いに共振して一体感を感じる〈ふれる〉言葉と、思わず反発してしまう〈ふれる〉言葉の境界線を一般化してしまう事はできず、極めて個別具体的な関係性と、非言語を含んだコミュニケーションの中で、関係性を構築していくしかなさそうです。
特に言葉から漏れ出る「きめ」を無視すると、「ふれる」言葉を使ったとしても、つながれない事態が起きる可能性が高まるようです。
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言葉の持つ〈身体性〉をもっと自覚しながら、個別の関係性を深めていきたいと思いました。
野中恒宏